唯一無二のほとけごころ
(出典:書き下ろし)
幸せに成りたい。
“不幸で無い事”を求め、悩むあまりに、”幸せ”とは何なのかがもはやわからなくなり、「世の中に生きる灯火を見つけられない」と嘆く方が多いのではないでしょうか。
私たちは何をもって”幸せ”と、生きていけば良いのでしょうか。
仏教では、物質的な満足感や、差別的な優越感を幸福とする資本主義社会的な幸せを良しとはしません。また、禅の世界観においては、思考熟慮による正義や分別さえ、夢幻の事とされています。
我われ凡夫の求める幸せの定義は、不幸せと比べての幸せであり、利己的な幸せを求める心は、限りある生に在りながら永遠を求めるという矛盾を抱え、いつ何時も満たされる事なく餓え渇いているのです。
何も現世利益を求めるのが悪いという事ではないのです。ご自身の”求めるこころ”に、いつの間にか支配されてはいませんか、とお伝えしたいのです。
約2500年前にお釈迦様がお亡くなりになられる際、「自灯明、法灯明」との御言葉を残されたと伝わっております。
「自灯明」は私自身の存在そのもの、「法灯明」はお釈迦様の説かれた無常論ではじまる仏法そのものといえます。決してどこか他に答えがあるのではなく、自らに具わっている”今、ここ、わたし”が何者であるかと見つめ直すことによって、灯とは何であるかを知るのが、禅の教えであります。
何もかも(我われの人生も含め)が常では無いという、変化しつづける世にあって、世間一般の価値観によって作られた思考を刷り込まれ、形の決められた幸せを求めるあまり、それらを手に入れようが入れまいが、もはや自己のこころといのちを見つめる事などなく、不満不足の念に囚われ、虚しく日々を過ごしているのが我われの現状であります。
よくよく私のこころといのちを顧みれば、全ては御用意いただいたものと気づく瞬間が訪れます。人としての生を受け継いだ我々は、貴重な時間を、世間体や、世間の価値観の為に使われる事にならぬようにせねばなりません。
受け難い人身を受けて、生かされた己のいのちとこころをもって、周りのいのちとこころを活かす事こそ、この世と共に生きる自然な姿、「生活」であり、人の自然本来の姿ではないでしょうか。
私が生まれる前から受け継いだやさしいこころは、私の用意できる唯一無二のほとけごころ。
幸せを願うならば、まず、沢山のいのちとこころに支えられた福そのものである私自身に気付くことが大切でなのです。
「おかげさま」と、いただいた御恩に報いるために我欲のない生活をし、お供えできる自分自身を発見することで、楽しい時も悲しい時もめいっぱいにそのいのちを生きられるようになり、実りある人生になってゆくのではないでしょうか。