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菩提の種

(出典:書き下ろし)

厳しい寒さも日毎に和らいで、水温み草木の花綻ぶ心地よい季節になってきました。

今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな

 毎年お彼岸の時候になると各地の寺院で見聞きする、松尾芭蕉の句とされる俳句です。「菩提」の意味、解釈には様々ありますが、ここでは「安らぎの境地」、「穏やかな心境」ということでありましょう。

myoshin1603a.jpg この世の中はいつの時代も、何一つとして自分の思い通りになることも自分の都合よく進むこともありません(=「①一切皆苦」)。しかし私達人間は、この世の中は自分の思い通りになる、都合よく進むことになっている、と錯覚し生活しています。その錯覚を生じさせる原因は、この世の中の「利便性」、「進歩」です。「利便性」、「進歩」は日常生活において切っても切れない必要不可欠なものです。しかし、そこに軸足を傾けていった先には好悪、優劣、黒白といった自他を分別した思考、「結果さえよければいい」、「自分さえよければいい」というような自己中心的なはたらきしか生じず、「一切皆苦」の根本的解決には至りません。
 仏教は決して自己中心的な結果ありきの教えではありません。「一切皆苦」を前提、出発点として捉え、そこから本物の力強い一歩を踏み出すための教えなのです。

 では、なぜこの世の中は「一切皆苦」なのでしょうか。「罰(ばち)が当たる」、「オバケ」、「祟り」、「不吉」……といった人の力の及ばない、人智では超越することができないものを私達は畏れます。そういった畏れの根底には、この世のすべては移ろいゆく現象であり一瞬たりともその姿かたちを留められるものはない(=「②諸行無常」)、という不変の真理が流れています。
 この真理の中に存在している私達は、誰一人として決して明日の命を約束することができないように、すべて自分の思い通りにはならないのです。
 その厳しい「諸行無常」の真理の中にありながら、私達一人一人は家族、友人をはじめとした多くの人々とのつながりによる恩恵、また太陽、空気、水、動植物などからいただく恩恵、そういった数多の「恩」をいただいて、今この「我(私)」という存在を生きることができています。この「恩」によって私達一人一人が今を生きていることを如実に知るならば、「我」のことは差し置いてでもこの「我」を取り囲むすべての存在が明日あることを願い行動せずにはいられないのです(=「③諸法無我」)。
 「利便性」、「進歩」も、この「諸法無我」が根底にあり、それぞれその時代に沿って形を成し現前しているものに他なりません。そして、すべての人々がお互いに「諸法無我」であることを自覚し生活していくところに「安らぎの境地」、「穏やかな心境」……いわゆる「菩提」が生まれていくのです(「=④涅槃寂静」)。

 「菩提の種を蒔く」とは「恩に報いる生活をする」ということです。「利便性」・「進歩」に囲まれた生活の中で常に「報恩」の基軸を育んでいくことが、仏教の説く「中道」の実践行へとつながっていきます。
私達一人一人に与えられたかけがえのない一瞬一瞬が本当に良きものとなるよう、日々数多の「恩」に感謝し「報恩」に務めていきたいものです。

※「四法印」……仏教教理のひとつ。悟りへの境地を①一切皆苦、②諸行無常、③諸法無我、④涅槃寂静の4段階に分けたもの。

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