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白隠禅師のこころシリーズ〔3〕

(出典:書き下ろし)

 本年の大河ドラマの主人公・真田信繁(幸村)と臨済宗は、因縁浅からぬ繋がりがございます。
 日本臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師は、真田信繁の兄・信之の庶子とされる道鏡慧端(どうきょうえたん)禅師から、禅の奥義を受け継がれました。
 奇しくも今年は白隠禅師の250年遠諱法要にあたり、宗門挙げて白隠禅師の御遺徳を顕す催しが成されます。

rengo1602.jpg さて、真田信繁といえば稀代の策略家とされますが、『名将言行録』にこのような逸話が残されております。
 家中で作戦の判断等が二つに分かれた場合、クジ引きで進退を決めたそうです。しかし、何事も簡単にクジ引きで決めたのではありません。詮議つくされた上での事。祖父の位牌、像の前に香華灯を献じて謹んで礼拝し、クジを引く。信繁はこう言い切ります。「このようにクジで決めると、たとえ作戦や計画が失敗しても、特定の人間の責任にならぬという徳がある。時代の流れや人間が代わっても、良将の心は同じ。近頃の禄と名誉を追い求める学者にはわからぬことだ」。禄と名誉を追い求める学者とは、成功や失敗という成果のみを気にする人たちの姿を表わしています。作戦や判断の失敗よりも、人間を大事にとらえた真田信繁。生死や喜怒哀楽が渦巻く戦乱の中、さすがは名将と称えられるべき慧眼を持ち合わせていたと言えるでしょう。

 この世を生き抜くには、チョッとやソッとで動じてはなりません。知識や度胸、経済、科学、心理戦で優位に立つ。臨機応変、融通無碍に判断し、渡り歩かねばなりません。そこに戦国時代と現代の違いはありません。
 物事を判断する根っこの事を、仏教では「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」と言い表わします。この感覚器官から私たちは、多くの情報を受け取ります。
 ここで、白隠禅師のお言葉をご紹介いたします。

己が心の喜怒哀楽、起こる源是れ何ぞ、眼耳鼻舌身使ふ主  『寝惚之眼覚』

 眼耳鼻舌身から得た情報で、物事を見極めようとする私たち。しかし逆に判断に迷い、湧き上がる感情に振り回されるのも人間です。大切なのは、白隠禅師が示された「主」。私たちの自己です。自己との向き合いを懺悔(さんげ)とも言い表わします。判断や結果が思い通りにならなくとも、「人生の主」が自分だと気づき、わが身をふり返ることで、人は今一度歩き出せるのです。只今の自己をみつめる。それが臨済宗の説く御教えであります。

 最後に、真田信繁といえば六文銭ですが、真田の旗の六文銭は何を示しているのでしょうか。あの世の三途の川を渡るための冥銭と一般に知られますが、何故六文銭なのでしょうか。
 「六」という字は象形文字の家屋から成り立っています。それもただの家屋を指すのでなく、神を祀った幕舎とも言われます。日本人は神仏ばかりでなく、真田信繁が祖父の位牌、像を祀ったように、御先祖様への思いをも大切につなげて参りました。その習慣から、神仏先祖へ供える文銭が「六文銭」という名称になったのではと考えるのであります。
 日本人が我が風土で培った、御先祖様へ手を合わせる姿は、紛れもなく自己をみつめる礼拝であります。
 テレビの中で靡く六文銭。その度に、白隠禅師との因縁と、「人生の主」に気づく機会になればと存じます。

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