臨済禅師のこころシリーズ〔3〕
(出典:書き下ろし)
我が宗祖、臨済義玄(りんざいぎげん)禅師はとても親切なお方です。
「一無位の真人(いちむいのしんにん)」
「無事是れ貴人(ぶじこれきにん)」
ありったけの工夫を凝らして、活き活きと弟子を導くその姿は、理想のお師匠様。もし自分が弟子ならどんなお言葉を下さるだろう、ついそんな想像をしてしまいます。
思えば、寺で生まれ育った私は、物心つく前から「跡取り息子」と言われ、檀家衆の「立派なお坊さんになるんだよ」、そんな言葉を真に受けて育ちました。しかし成長するにつけて気が付いてしまうのですね。「あれ、オカシイナ。俺はそんなに立派な人間じゃ無いぞ」腹を立てて喧嘩をしたり、人の成功が妬(ねた)ましかったり。だんだん「立派なお坊様」とはかけ離れてゆく心。自分には足りないものが多すぎる。コンナハズジャナイ。理想と現実の大きなズレに苦しむ、そんな青春時代でありました。
その苦しみを解決できないまま、大人になった私がいます。臨済禅師だったらなんと仰るでしょう。
「道流(どうる)、大丈夫児(だいじょうぶじ)、今日方(まさ)に知る本来無事なることを」(おい、一男子として元々なんの不足の無いことに気がつけよ)
「祇(た)だ你(なんじ)の信不及(しんふぎゅう)なるが為に、念念馳求(ねんねんちぐ)して、頭(こうべ)を捨て頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能(あた)わざるのみ」(ただオマエが自己を信じ切れないから、自分の外に答えを探して、結局見つけられず焦ってばかりなのだ)
臨済禅師にガーンと一発食らったようです。そういえば、あるとき我が子が言いました。「父さんは、父さんだから大好きなんだよ」。私に向けられた無邪気で揺るがない信頼。この一言は、「父とはこうあるべきだ」などという小賢(こざか)しさを吹き飛ばし、同時になんとも言えない幸福感となって私を包みました。唯々父である、それだけで良いのだと、私は心底、安堵(あんど)することができたのです。
そうか。お師匠様、探し回ってはいけないのですね。私が私を心から信頼してやる、それ以上である必要は無いのですね。怒らない心も妬まない寛容さも、どこかで身に付けるものだと思い違いをしておりました。何も足りなくなどなかった。私という命が生きている。唯々私であれ、それで良かったのですね。ああ、なんだかホッとしました。
「自分」を信頼し切る。そこに現われる清浄な心こそ、確固たる本来の自己であります。一瞬一瞬に懸命に生きるならば、そして「信及(しんおよ)」びさえすれば、誰でも「一無位真人」、「無事是貴人」であることができる。つまりそれは圧倒的絶対的な人間性の大肯定です。衆生(しゅじょう)本来仏なり。この大安心。これこそが臨済義玄禅師の教えであり、臨済宗の本旨なのです。
しかしいつしか再び「信不及」になって、不安になって、ウロウロキョロキョロ。これもまた人情であります。ちょうど今年は臨済禅師の御遠諱(ごおんき)。1150年の時を超え、またいつでもガーンと一発、食らわせてもらえます。
みなさんもぜひ、どうぞ。効きますヨ。