臨済禅師のこころシリーズ〔2〕
(出典:書き下ろし)
皆様は、自分に自信をお持ちでしょうか。よく「自分に自信を持て」と言いますが、そんなに簡単には自信を持つことはできませんよね。そもそも自信とは何でしょうか。自信は目に見えませんし、他人にあげたり、もらったりということもできません。しかし、自信の大切さはよくお分かりでしょう。自信がなければ何もできませんし、自信さえあれば、何でもできそうな気がします。これを禅的な言い回しで表現しますと、自信を持つとは、自分の心の中に仏様を求めることです。「仏」というと何だか難しそうですが、ここでは悩みの解決法とお考えください。
臨済宗の宗祖、臨済禅師は「病は不自信の処に在り」と説かれています。ここでいう「病」とは病気ではなく、心の迷いのことです。問題は「自分の心が迷い、自分自身を信じきれないことだ」と言ってもよいでしょう。臨済禅師はさらに「近頃の修行者たちの何が問題かと言うと、自分への信が足りないことである。自分を信じることができないから外に答えを求め、自分の外の世界に振り回されてしまう。自分の外に答えを求めることをやめれば、それこそ仏と異ならない」とも説いています。
以前、ある家庭から相談を受けたことがあります。その家の中学生のお子さんが非行に走り、高校生の不良グループとつきあうようになってしまったのです。お母さんがあれこれ注意しても子どもは言うことを聞きません。色々と問題を起こしたあげく、ついには万引きで警察に捕まってしまいました。お母さんは「何を言っても無駄だから」とあきらめています。そして、私たちの前で、「あいつなんて少年院に行けばいいんだ」と言い放ったのです。
私たちはこれではいけないと思い、手を尽くして説得しました。
「ただ単に遊ぶ金ほしさではなく、母親の気を引きたかったのかもしれない。原因は子どもにばかりあるとは限らない。母親が信じてあげなくてどうするの」そう言って説得しました。お母さんは最初、「あいつが悪い、何を言っても聞かないから悪い」と言っていたのですが、しばらくしてぽつりと、「下の子の世話が忙しくて、あんまり話ができなかったかもしれない」と話しはじめました。
子どもが非行に走る原因を自分の外にばかり求めていたお母さんが、自分を見つめ直すことができた結果、お母さんは子どもと向き合い、きちんと子どもを叱ることができました。「うちの子は必ず更生できる」と子供を信じること。そして何よりも「私がこの子の母親である」という自信をもつこと。親子が一緒になって成長していくことが大切なのではないでしょうか。
「私も周りに振り回されてなかなか自信が持てない」という方もいらっしゃるでしょう。「私は大丈夫」と自信をもって言える方もおありでしょう。自信を持つのは大変結構ですが、独りよがりになってしまうことも多々あります。独りよがりの自信は過信にすぎません。これも自信がないのと同様に、「病」となります。どちらにせよ、たまにはゆっくりと落ち着いて、自分を見つめる余裕が欲しいものです。