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白隠禅師のこころシリーズ〔2〕

(出典:『慧日』第27号より)

 臨済宗のお寺では「白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)」というお経がよく読まれます。日本臨済宗中興の祖、白隠慧鶴禅師の著したお経です。このお経は「衆生本来仏なり」で始まり「此の身即ち仏なり」で締めくくられます。小さなお子さんにもわかるように言い換えるならば「この世で生きる私たちは、そのまま仏さまです」となるでしょう。
 しかし「私たちは仏さま」と言われても、お子さんどころか大人でさえも理解に苦しむのではないでしょうか。白隠禅師は私たちに何を伝えたかったのでしょうか。

「今年の夏は暑くて大変でしたね」
「去年は雪が少なかったけど、寒い冬でした」

rengo1510.jpgなど我々は自然界の中で生きています。どんなに便利な都会で暮らしていても、天候には、大自然には逆らえません。「西から昇った太陽が東の方角に沈む」ことがあったとしても、猫が「ワン!」と鳴いたとしても、「想定外」と呼ばれる自然災害が発生したとしても、それらも勿論自然の一部。自然界はどこまでいっても全てが自然であり、自然界に「不自然」は存在しません。
 むしろ見方を変えれば、大自然の中で、大宇宙の法則の中で生かされているにもかかわらず「正しい」「悪い」、「好き」「嫌い」、「美しい」「汚い」と個々人の都合を最優先しようとする我々人間の方がよほど「不自然」な存在かもしれません。

「正しい」「悪い」は人間が人間の都合で決めたこと。
「好き」「嫌い」は人間が人間の都合で決めたこと。
「美しい」「汚い」は人間が人間の都合で決めたこと。

 「この世で不自然なのは我々人間だけである」とも言えるでしょう。自然の流れに任せていれば良いことなのに、人間がその都合にこだわり過ぎるとそこから「迷い」が生じます。やがてその「迷い」が「欲望」へと変化し、そして「こうでなければいけないのだ!」という「執着(しゅうじゃく)」を生み、ついには気付かぬうちに「苦しみ」となって我々を悩ませるでしょう。自然に逆らうといつまで経ってもこの繰り返しです。

「衆生本来仏なり」「此の身即ち仏なり」「私たちはそのまま仏さまです」

 我々が生まれながらにして具(そな)え持っている「自然なこころ」が「仏さまのような素直な純粋なこころだよ」と白隠禅師は仰っているのではないでしょうか。
 「個人の勝手な都合で自然界や大宇宙の法則に逆らうことなく、自然なこころ、仏さまのような素直なこころに逆らうことなく、晴れの日は晴れなりに、雨の日は雨なりに、自然なこころに従って日々暮らしていければ、それだけで十分幸せですね」という、大変ありがたいお教えであると考えることができないでしょうか。

 何かと忙しく慌ただしい現代社会ですが「自然に生きてみよう」「仏さまの気持ちになって生きてみよう」と考えるだけで、ほんの少し楽な生き方ができるかもしれませんね。 平成29年には白隠禅師250年の大遠諱が厳修されます。遠諱とは没後50回忌以降、50年毎に行なわれる大法要です。
 普段忘れがちな「自然なこころ」「仏さまのこころ」を、この機会にもう一度改めて考え直してみることも、我々仏教徒にとって大切なことではないでしょうか。

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