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ダルマ心と秋の空

(出典:書き下ろし)

myoshin1510a.jpg 10月の5日は「達磨忌(だるまき)」といって、達磨大師のご命日といわれています。禅宗の僧侶になるためには厳しい修行が求められますが、道場では、この日は夏の麻衣から木綿衣に着替える「衣替え」の日でした。木綿衣に袖を通すと、不安と緊張しかなかった道場への入門の日を、その匂いから不思議と思い出したものでした。
  
 達磨大師といえば、禅をインドから中国へ伝えたことにより、禅宗の初祖と呼ばれる高僧であることはいうまでもありません。そして、寺院の床の間に飾られた、何とも威厳があり、迫力満点の「達磨図」をご覧になったことがあるのではないでしょうか。
 「達磨図」はそもそも、法要で使う道具として絵画専門の僧が描いていたそうですが、ある時から、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といわれる「言葉では言い表わせない禅の教え」を表現する手段として用いられるようになりました。
 特長的な「達磨図」を描く禅僧に、江戸時代に活躍した白隠(はくいん)がいます。それまで、礼拝の対象としての崇高な画であったものを、白隠は一般民衆へ禅の教えをひろめるための「禅画」として描き、現在もたくさんのものが残されています。
 先日、テレビの鑑定番組で白隠禅師の「達磨図」が紹介されていました。その画に題して余白に添え書かれた句には、

このつらを祖師の面と見るならば 鼠を捕らぬ猫と知るべし

と記されていました。直訳するならば、「この顔を、初祖達磨大師とみるならば、その人は役立たずの人間だ」でしょうか。厳しい眼光を放つ、まさに達磨大師のお姿を、どうして祖師の面としてはならないのか。実はここに、深い禅の教えが示されているのです。
 この教えを紐解くのに、よく達磨図に記されている「直指人心、見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」という言葉を深めてみましょう。
 言葉を解説すれば、「直指」とは直接的に指し示すこと。「人心」とは「ほとけのこころ(仏性)」、言い換えるならば、人間の心に秘在する「本当の自分」となるでしょうか。「見性」とは、その「こころ」を徹見して、仏陀(悟った者)になること、つまり「成仏」となります。全体の意味として、「自分の心の中にある『こころ』を見つめて、真の自分になること」となります。

 私も坐禅会をさせて頂いておりますが、当初は「禅の教えを伝える」ことが目的でした。しかし、回数を重ねるごとに説明する話術に気をとられ、坐禅の技術と作法に重きを置き始めている自分がいました。坐禅で一番大切なのは、参加者の方が一人一人、直接自分自身に問いかけて、苦しみながらも自ら答えを出すことであったはず。坐禅の作法はもちろん大切ですが、あくまで「成仏」を目的とした手段でしかないということを忘れてしまっていたのです。これこそ、達磨大師の姿を崇拝することにとらわれて、一番大切な達磨大師の教えをおろそかにしてしまっていることにほかなりません。
 白隠禅師の達磨図の句、「このつらを祖師の面と見るならば 鼠を捕らぬ猫と知るべし」の意味に立ち返ってみましょう。師を拝むことにばかりとらわれて、教えをおろそかにしてしまっては本末転倒。「ほとけのこころ」は、何も立派な掛け軸の中にあるのではなく、私たち一人一人の心の中にあることを、白隠禅師は教えてくださっているのです。
 秋空が高く澄みわたる衣替えの季節。襟を正して「初心」を再確認するには、もってこいの時節ではないでしょうか。

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