ミミズ「おい、どうなんだ」
(出典:書き下ろし)
夏が終わり、そろそろ冬野菜に備えて畑の準備をする時季になりました。 私の住む寺には小さな畑があります。ところが、私は畑を耕す作業が苦手です。土の中からミミズが何十匹と出てくるからです。といっても虫が嫌いだから苦手というわけではありません。土を掘り起こしていると、鍬(くわ)でミミズを引っ掛けてしまうからです。二つに切れたミミズは全身を激しく動かして悶え苦しみ、やがて力尽きて死んでしまいます。畑を耕して野菜を作るには殺生を避けられないと感じる場面です。
仏教徒が守らねばならない戒に「不殺生(殺してはならない)」があります。肉魚を食べてはいけないといわれる根拠でもあります。しかし、畑を耕す話からもわかるように、肉魚を避けて野菜だけを食べていても戒を守っているとは必ずしも言い切れません。そうかといって殺生を避けていては食べられる食材は一つも無くなってしまいます。殺生をしたのが直接なのか間接なのか、野菜は例外とするのか、どこかで殺生の線引きをしようとすると、どうしても自分の勝手な解釈を持ち出さなければなりません。いっそのこと線を引くのを諦めて、人間の営みは殺生の上に成り立っていると自覚した方がいいのではないか、悶え苦しむミミズたちが「おい、どうなんだ」と私に問いかけます。
また「不偸盗(ふちゅうとう・盗んではならない)」という戒があります。野菜の栽培では、日当たりを工夫し、水や堆肥を与えるなど自然の恵みを活用します。ところが、活用と言えば良い意味に聞こえますが、自然は本来人間だけのものではありません。自然の活用とは人間の立場から見た都合の良い解釈であり、見る立場を変えれば自然を盗んでいるともいえます。「盗んではならない」という戒とは裏腹に、盗んで成り立っているのが人の暮らしの現実ではないでしょうか。
畑を世話していると、仏教の不殺生や不偸盗の戒は単に社会のルールではなく、人のあり方を省みる問いかけであると気づかされます。
禅寺で食事の前に読まれる「五観文」というお経に次の一節があります。
己が徳行の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず
「全闕を忖る」とは、全(まっとうした)か闕(欠けている)かを推し量ること。要するに、目の前の食事を頂くに相応しい生活を送っているかどうかを自問しなさい、という意味です。修行寺で初めてこの一節を知った時、このような発想で食事をした経験の無かったことを恥じました。同時に食材の命の重みを考えるきっかけとなりました。
残念なことに、未だに食事を頂くに相応しい生活を全うしていると感じることはありません。しかしながら、「欠けている、殺生している、盗んでいる」という自覚は生活のあり方を省みるきっかけになります。もしも自覚と反省がなければ、感謝に裏付けられた慎み深い暮らしはなく、また感謝と慎みがなければ、自然の命を生かして活用する「不殺生、不偸盗」の生き方を見出すこともできないのではないか。
「おい、どうなんだ」と土の中からミミズが顔を出しては今日も私に問いかけるのです。