アリストテレスとジョギング
(出典:書き下ろし)
最近、5㎞マラソンに挑戦する友人に連れ添って、ジョギングをしています。その友人いわく、「走り終えた後の水がおいしい。その水を飲むために走っているようなものだ」。
ジョギングを終えた後、コンビニによって私はコーヒーを求めました。何気に買った缶コーヒーに、アリストテレスの「忍耐は苦い。しかしその果実は甘い」の格言が書いてあり、思わずふたりで笑いながら帰りました。
気付けば十年以上も経ちますが、私もかつて似たような経験があります。修行道場にまだ身を置いていた頃、そのお寺で大きな行事がありました。朝から晩までめまぐるしく働いて、最後にささやかな打ち上げになりました。会下和尚とよばれる、かつて修行道場に居られた先輩の和尚さんから、この度の行事についての反省会と御垂訓を頂くのです。どこの会社組織、地域活動にも見られる忍耐のお時間です。
すると横に座られた会下和尚から、スッとお茶碗を手渡されて、「お疲れ様でした。まあ飲みなさい」と促されました。頂きますと会釈してそのまま口に含むと、何ともいえないような甘い水でした。
「あっ、これ般若湯(お酒)じゃないですか」。私は目をまるくした覚えがあります。よほど疲れ切っていたのか、あの時に頂いた般若湯ほど、甘くて美味しいものは未だ口にしたことがありません。
味ばかりでなく世の中の価値さえも、その人の置かれた状況によって変わってきます。ジョギング後の水も、修行時代にスッと手渡されたあの般若湯も、飲む前に別に味付けを上乗せされたものではありません。その人の為した労苦が、おのずからその味をつくりあげたものなのでしょう。
禅の言葉に、
刻苦光明必ず盛大なり 『禅関策進』
の語があります。刻まれた労苦には、必ず光り輝く喜悦がはね返ってくる。慈明和尚という方が、厳しい坐禅修行の合い間の睡魔を、自ら自身の腿に錐を突き刺して奮い立たせた故事から生まれた言葉です。
鑿や錐で石を彫る際、打つ度に火花が飛ぶように、私たちが日常の中で刻んでいく経験や苦労には、それに見合った成果がある。厳しい修行もその真心を尽くせば、必ず報われる。人の為に尽くす心を持ち合せて接していけば、必ずその心は通じるものです。反対に、人に対して向き合う姿勢を見せなければ、それに応じたはね返りを受けることになります。
肥えてきたお腹を抱えながら、必死でジョギングする自分の影に、刻苦光明と勤しんでいる今日この頃であります。