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自灯明 法灯明 ~自分と向き合い 心を修めていく~

(出典:書き下ろし)

 まだまだ肌寒い2月、立春を迎える月ではありますが、春の陽気を感じるにはもう少し時間がかかりそうです。さて、2月15日は、釈尊がお亡くなりになった日であります。釈尊は、入滅される前に「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。教えのかなめは心を修めることです」と、悲しまれるお弟子たちに最後の法話をされました。
 自らを灯火とするとは、自分と向き合うことです。人任せの人生も、物任せの人生もありません。自分の人生は、自分自身で歩むもの、誰も代わってくれるものはありません。そして、釈尊が「法(教え)のかなめは心を修めること」と説かれているように、欲に任せて自分を見失わず、辛いことから逃避せずに向き合う、そして、正しく心を観察することで、常に幸いに満たされると説かれたのです。
 しかし、簡単には、そのような心境に至れないのが私達でもあります。どうしても自分の都合で物事を考えて、腹を立て、不平不満をこぼしてしまいます。また、迷い苦しみ逃げ出したくなる時もあります。
myoshin1502a.jpg 昨年、お寺の世話役であったお檀家のご主人が、癌を患い68歳という若さでこの世を去りました。癌を宣告されたのは2年前です。しかし、宣告された後もお寺の仕事は毎日のように務めて下さいました。私が「無理をなさらないで下さいね」と申しても「大丈夫、大丈夫」と仕事に黙々と打ち込む姿を私は忘れられません。
 そんなある日、ご主人が私に「和尚さん、私はやっと覚悟が決まったよ。もう後悔は無い、迎えが来ることも怖くない。今できることを、ただ感謝を持って遣り抜くだけだ。やっとね……。やっとその心構えができたんだ。だから和尚さん、最後まで手伝わせておくれ」その強い覚悟の言葉に触れ、私はただ深く「宜しくお願いします」とお辞儀で返すことしかできませんでした。そして、その言葉通り、それからもお亡くなりになる数日前まで、お寺に尽力下さいました。
 ご主人の苦しみは、ご主人にしか解りません。しかし、ご主人は、闘病生活の苦悩から逃げずに、自分の命と向き合う日々を送られたのだと思います。それは、並々ならぬ辛労だったはずです。しかし、「今できることを、ただ感謝を持って遣り抜くだけだ。」と自分の心を修める心境にまで自分自身で到達された、そして、その修めた心を自分の拠り所となる灯火とし、最後まで誇りをもって生き抜くその姿こそ、釈尊の教えそのものだったように私は思います。
 お寺には、ご主人の仕事の手の跡が、あらゆるところに遺っています。境内の竹垣、書院の縁の下の束の修理、仏具修理など、挙げればきりがありません。その仕事は、人の目のつかない様な所でも丁寧にされています。ご主人の「今できることを」遣り切った跡が、その心が、亡くなった後も今なおこのお寺を支えてくれているのです。

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