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為すべき事、それが修行

(出典:書き下ろし)

rengo1412b.jpg 十二月というと、仏教では何と言っても成道会です。お釈迦様は八日、明けの明星を見てお悟りを開かれ、それにより様々な苦から解き放たれました。
 お釈迦様がお悟りを開かれたおかげで、2500年以上たった今でも私達が仏教を感じ、学べるのです。しかし最初、お釈迦様は己の悟り、仏教を他の人々に伝えようとはされませんでした。それは「この悟りを説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」と考えられたからです。しかしその姿を天上から見ていた梵天(インドの神様)が三度もお釈迦様に「どうかその悟りを人々に説いて下さい。きっと救われる人がいます」と頼みます。それを受けてお釈迦様は最初の考えを変えられ、「たとえ徒労に終わったとしても、己の悟りを伝えることで救われる人がいるかも知れないならば、伝えることが為すべき事なのだ」との慈悲心により、45年にも及ぶ伝道を行なわれ、今現在に至るまで多くの人々を救っておられます。
 私が住んでおります有田という地は焼き物の産地です。400年の歴史の中で景気の良い時も悪い時もありました。最も危機に瀕した時は明治維新の時です。それまでスポンサーであった鍋島藩が無くなったからです。それまでは多くの窯元が藩から注文を受け、焼き物を作っていました。つまり間違いなく売れる品物を作っていたのです。それが作っても売れるかどうか分からない時代になったのです。収入が激減していく苦境の中でも多くの人が「窯を残そう」、「多くの先人が伝えてくれた技術を残そう」、「きっとこの焼き物を必要とする人が出てくるはずだ」、「伝える事が私達が今、為すべき事だ」、と必死になって窯を、技術を残してくれました。そのおかげで世界でも名の通る焼き物の産地として今も続いております。
 私達は何か事を行なおうという時、これはできそうだからやろう、あれはできなさそうだからやめておこうと、つい打算をしてしまいます。
 必ず結果がついてくるから行なう、結果がでないと無駄骨だ、という考えではいけません。物事を行なう時はできる、できないを超えた心で、その時に己が為すべき事を行なうのです。その心があれば何を行なってもそれは仏教であり、”修行”になります。
 幕末の三舟といわれ、深く禅を学ばれた山岡鉄舟居士はこういう句を残されています。

蝸牛 登らば登れ 富士の山

 目の前に富士山があるならば、蝸牛であってもただただ一心に登る事が大切だと、つい打算をしてしまう心を戒めています。
 年末に際して改めて、己が今、何を為すべきなのかを見極め、しっかりと行なって参りましょう。

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