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不動のこころ、変わらないということ

(出典:書き下ろし)

rengo1410.jpg 「不動」という字を紐解きますと、天龍寺の法堂にも安置されており、大方丈にも上間の間にも掲げてあります不動明王が目に浮かびます。
 歌舞伎の世界でも不動明王は登場します。歌舞伎十八番の中に、1600年代後期、江戸中村座において、後の二代目市川団十郎になる初代市川九蔵が「兵根元曾我」(つわものこんげんそが)の一幕がそれで、大詰に役者が不動明王に扮して登場するもので、市川宗家の成田信仰に由来します。そして、この成田山新勝寺の本尊こそ、不動明王なのです。
 不動明王は真言密教の根本尊である大日如来の化身であり、内証といって内心の決意を表わす仏様といわれており、私も含めて私達、凡夫の煩悩や迷いをいさめ、さまざまな困難や障害を打ち払う為に、怒りの形相をしておられます。右手にはお悟りを表わす利剣を持ち、あらゆる迷いを断ち切ってくれます。左手には策(なわ)持って、仏教の教えに背く者を、この縄で自分自身の手元に手繰りよせ、正しい教えの元に導いてくれるのです。
 今から2600年ほど前、釈迦は安楽な王子の座を棄て、生老病死の苦しみから救われるにはどうしたら良いのかと修行の道に入られました。最後の修行、坐禅をされる前に釈迦は「我、悟りを開くまでは、この場を立たず」と決意され、坐禅を始められると、世界中の煩悩や妄想が釈迦を挫折させようとして押し寄せます。しかし釈迦は微動だにせず、降魔の印を結ばれて、煩悩や妄想を打ち払われました。不動明王はこの時のお釈迦様の内証(内心の強い決意)だったともいわれています。
 私自身も坐禅の修行中、いろんな妄想が湧き出て、自分自身のやる気を無くそうとしたのを思い出します。人間は肉体よりも精神的に、自分自身を追い込まれてしまう方が弱いようです。そこで一番重要になるのが、ゆるぎない精神力、すなわち不動のこころを極めていく事こそが、釈迦が悟りを開かれた修行の実践であり、人間として生きていく上での最善の方法だと信じております。
 現代社会というのは、日々刻々、いろんなものが変動しております。特に科学技術などは、今この時は最先端でも、次の瞬間には過去のものとなってしまいます。そして、時としてその論理が逆転してしまって、まったく逆の理論になることも数多くあります。情報は日々、膨大な量に及び、中には個人を中傷した悪意に満ちたものまで一般に出回り、人々のこころを蝕んでおります。そんな中で無差別殺人やストーカー殺人、金属バットによる親殺し、幼い子供の虐待事件など、悲惨な事件が頻発しております。人間は、自分に向かってくる膨大なデータを処理しきれなくなって、物の善悪を図る能力を失いつつあります。
 私の住む京都には、年間5000万人もの観光客が訪れます。どうしてそんなに大勢の人がこぞって京都を訪れるのか。そこには自然と調和した春夏秋冬の特色をみせてくれる大自然があり、京都という街全体が何百年も続いた文化や伝統を見せてくれ、生きた歴史がそこには必ずあるということです。
 現代は「こころの時代」とよくいわれますが、人間の基本は不変であり、不動です。不変なものとは、自分がこの社会を作っているのではなく、自分はこの社会によって生かされているという事です。その事に感謝し、慈悲の心で他人にも優しく、父母や先祖を敬う気持ちを持ち続けることによって、自然と融和した人間社会が形成されるのではないでしょうか。

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