秋茄子は嫁に食わすな
(出典:書き下ろし)
スポーツ、読書、紅葉……、秋から連想されることは多くありますが、日本人にとってはとりわけ食欲の秋だとか。秋刀魚、栗、松茸‥‥、考えるだけで楽しみですね。秋ナスもそんな食材の一つ。
鮎はあれど鰻はあれど秋茄子
正岡子規もこんな句を残していますね。
さて、秋ナスといえば、「秋茄子は嫁に食わすな」。夏野菜のナスは、八月のお盆の頃には樹勢が一旦収穫を終えますが、そこで枝をバッサリ落としておくと、九月には再び新しい枝が伸びて実をつけます。けれど涼しくなる季節ですから、夏のように沢山は生りませんし、大きくなると種が目立って美味しくないので、小さめで収穫するのがコツ。でも、小ぶりで数も少なければ、美味しい秋ナスも沢山は口にできません。そこで、憎らしい嫁にはもったいない、嫁いびり常套句の代表のように定着したのだとか……。
一方で、ナスをはじめとする夏野菜には、人の代謝を落とし、体を冷やす効果があるそうで、涼しくなった秋には、秋ナスは体を冷やすから、大事な嫁には食べさせるなという意味が正しいとの説もあるようです。同じ言葉でも、まるで意味は逆、面白いですね。でも、当事者であるお嫁さんとお姑さんにとっては大問題、家族を巻き込んでの一大事に発展することもあるでしょう。では、その問題の根本は何でしょう?
江戸時代の禅僧・盤珪永琢禅師に次のようなおしえがあります。
嫁が憎いの、姑が憎いのと、よくいわっしゃるが、嫁は憎いものではないぞ、姑も憎いものではないぞ。嫁があの時ああいうた、この時こんなきついことをいわしゃった、あの時あんな意地の悪いことをしなさったという、記憶が憎いのじゃ。記憶さえ捨ててしまえば、嫁は憎いものではないぞ。姑も憎うはないぞ。
私たちは、これまでの経験や知識を記憶し、それに現実を照らし合わせて物事を判断します。それ故、記憶は私たちが生きるために必要不可欠なものです。けれど、その記憶が「嫁が憎い」、「姑が憎い」と憎しみを生み、その憎しみが新たな憎しみを生むことに……。
そこで盤珪禅師は、記憶を捨てよといわれます。記憶を捨てるとは、すなわち記憶に囚われるなということ。囚われなければ、その記憶が憎しみを生むこともありませんよね。
記憶に囚われた自分から、囚われない自分へと、お嫁さんがそう変われたならば、以前は嫁いびりに聞こえた「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉も、嫁への労わりと聞こえるのかもしれませんね。その変化は、やがて必ずやお姑さんの心にも届くことでしょう。そう、「私が変われば世界が変わる」(前妙心寺派管長・河野太通老大師)。
それにつけても、秋刀魚、栗、松茸、そして秋茄子よと、美味しい記憶に囚われずにはいられない今日この頃です。