温故知新
「温故知新」といいますが、現在の家庭を考えます時、この言葉を噛みしめずにはおれません。お互いの家庭は、先祖代々伝承されたものであります。新家だ、別れ(分家)だといっても親あればこその存在ですから、伝来の家庭であるわけです。ところが伝来、伝統あっての現在を忘れて・・・・・・と言えば言いすぎかもしれませんが、古きを軽視して、未来を重視する傾向が日々の生活の上にあるように思うのです。
私のお寺では、各種の先祖代々供養の行事があります。お参りをすすめる案内を各戸に配りまして、それなりの準備をして行なうのですが、参加者は役員と詠歌部会員と、常に寺の行事に参加される何人かの人たちなのです。ところが、小・中学校の学校行事で行なわれる坐禅会では、本堂が親と子で満員になるのです。
住職としての私の布教の未熟さもあるのでしょうが考えさせられることです。
時代が時代だとはいえ、親の子に対する思いというのでしょうか、子供のためならば、親はほぼ全員集まるのですが、亡き親のことや今日をあらしめた先祖代々に対する感謝の供養には、少数のお参りしかないのです。これが親と子の世界なのでしょうか、あまりにも目先の現実のみにとらわれていないでしょうか。
仏壇は家庭の中心をなすものであり、先祖代々の位牌をまつり、その家の象徴でもあります。朝夕のお勤めは、亡き人の声なき声を聞きとりあっての一日の感謝の挨拶と報告でありましょう。
亡き人の声なき声を、どうやって聞くのかと思われる人もあるかと思いますが、たしかにこの耳で聞くことは、できないでしょう。
しかし、お互いは命あっての存在ですから、その命を考えれば、誰しも先祖代々の凝り固まりのような存在です。我とするもの何一つない存在なのです。そうしたことが自覚されるなら、親と子は別ならず、親こそ実は自分の前世であり、子こそ自分の来世なのです。
親として子に願っている心、言いたい事、そうした声なき声こそ、亡き親が私たちに願っている”声なき声”といえないでしょうか。
親の血を受けつぎ、親の生きざまによって、いつしか自分なるものを形成してきたお互いです。親の意志こそ、わが意志にもつながるものでありますし、子もまた、これをもって今を生きているはずであります。