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変わりゆく中で

(出典:書き下ろし)

myoshin1406a.jpg 「好きな植物は何ですか?」と尋ねられると、わたしは決まって「紫陽花」と答えます。なぜなら、紫陽花は白、薄青、淡紅、紫といったように同じ花でありながらさまざまな色をたのしむことができるからです。
 植物には、花言葉といわれるその花のイメージをあらわす言葉がつけられています。紫陽花の花言葉は何かというと、「移り気、心変わり」です。また、紫陽花は、花の色が変わっていくことから、別名「七変化」とも呼ばれています。若山牧水は「紫陽花の その水いろのかなしみの 滴るゆふべ 蜩のなく」と歌い、雨に濡れる紫陽花に喩えて、初夏から梅雨への季節の移り変わりと、少女が大人の女性に成長していく様を表現しました。
 紫陽花の花、そこから浮かんでくるのはやはり失恋といった悲しい言葉が多いようです。では、紫陽花を仏教の言葉に喩えるとどういう言葉があてはまるでしょうか。わたしは「無常」という言葉がしっくりとくるような気がします。『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に代表されるように、すべてのものは移ろいゆくもの。「無常」という考え方は仏教をならうものの基本となる教えです。
 縁あって、鎌倉の建長寺派管長であります吉田正道老大師のお話を聞かせていただくことがありました。その中で、とても印象に残ったお話があります。老大師は坐禅、托鉢、作務など種々の修行があるけれど、やはり禅者たるもの坐禅を修行の眼目としなければならない。そして、雲水という言葉があるように、やはり禅を修めるものは、流れゆく川や雲のようでなければならないとのことでした。
 さらに昔を思い出され、「自分の頭をなでてみなさい」という師である竹田益州老師の言葉を紹介されながら、坊主頭をなでることによって、自らが出家者であること、そして仏教をならうものであることに気づかされるとお話になったのが印象的でした。そのような老大師のお言葉に「おまえさん、流れに逆らって苦しんでないか」と無常の中であがいている自らを見透かされたような気がしました。考えてみますと、自分の思い通りにならないことに苦しむのが私たちです。そして、世の流れ、時の流れを思い通りにできる人は誰もいません。
 帰り道、まだつぼみの紫陽花に囲まれた参道を歩きながら、禅語の「行到水窮処 坐看雲起時(行いては到る水の窮するところ 坐しては看る雲の起きるとき)」が頭に浮かんできました。自然の中に身をおき、水の流れに身をたくし、流れゆく雲のように。坊主頭をなでながら、建長寺をあとにしました。

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