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禅、成り切る

(出典:書き下ろし)

myoshin1403a.jpg 拙寺に於きましては先住職の時代(昭和40年~60年頃)、高校生を中心にして30名程が毎月一度、金、土、日曜日の2泊3日、寺へ泊まり込み、盛んに坐禅会が行なわれていました。私はまだ小学生でしたが、坐禅会の日がくると一緒に坐っていたというか、坐らされていたというのが正直なところで、大変苦痛でありました。最終日の日曜日になると粥座後の作務で坐禅会が終了ということになるのですが、今になって考えてみますとまだまだ16、17、18歳の高校生です。修行僧のように徹底して作務に集中することなどできません。ただ箒を持って突っ立っている者、うろうろしている者、草を引いているのか喋っているのかわからない者、雑巾を濡らしているだけの者、さまざまであったように思います。そういう時によく先住職が大声で学生に言っていた言葉が、”成り切れ”ということでした。「箒を持てば箒に成り切れ、雑巾を持てば雑巾に成り切れ、成り切れんから喋るんじゃ、掃けんのじゃ、拭けんのじゃ」と、作務に成り切れということでした。
 ある日、野球部の学生が悩みを相談したことがあります。それは試合になるとどうしても打てないということでした。私もその頃少年ソフトボール部に入っており、何となく興味があり二人の会話を聞いていましたので今でもよく憶えています。
 先住職は「おまえさんバットで打とうと思うとるじゃろ。バットを持ってこのバットで打とうと思うとるから打てんのじゃ、おまえさん自身がバットにならにゃいかん、自分とバットが別々だから打てんのじゃ。バットを持てば自分がバット、バットが自分となって、ピタッと一つになったら打てる」と答えを出しました。
 その後この学生が打てるようになったかは知りませんがこれも”成り切れ”ということであったと思います。
 ”成り切る”とは、物と心が一つになるということです。人馬一体などといわれますが、人と馬が一つになってこそ良い結果が生まれてきます。車と一つになればこそ安全な運転ができるのです。靴と一つになればこそ、脱いだ瞬間無意識に玄関の履物は揃っていることでしょう。服を脱げばきちんと片付けられているでしょう。そういう日々を送っていきたいものです。それが禅的な生活(くらし)ではないでしょうか。

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