向嶽寺開山・抜隊得勝禅師の教え
(出典:書き下ろし)
山梨県甲州市にある向嶽寺は、抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師によって、南北朝時代に開かれました。その抜隊禅師の教えに「耳に声をきき響を知る主は、さて是れ何物ぞ」というものがあります。「耳で声を聞いてその音の響きを知る本当の主は、誰なのか?」という問いかけです。
その問いかけに対して、現代の私達が答えるとすれば、もちろん「自分」ということになるでしょう。しかしその「自分」というものを、私たちはどれだけ知っているでしょうか?
「海とかもめ」 金子みすゞ
海は青いとおもってた、かもめは白いと思ってた。
だのに、今見る、この海も、かもめの翅も、ねずみ色。
みんな知ってるとおもってた、だけどもそれはうそでした。
空は青いと知ってます、雪は白いと知ってます。
みんな見てます、知ってます、けれどもそれもうそか知ら。
よく、自分のことは自分が一番よく知っているといいますが、この金子さんの詩を「自分」に当てはめてみると本当によく知っているかどうかあやしくなります。実は私たちは、思っているほど自分のことをよく知らないというのが本当のところではないでしょうか。
自分を知らないということは、自分にどんな”すばらしいはたらき”があるか?を知らないということです。
同じく金子みすゞさんの「はすとにわとり」という詩があります。
どろのなかから はすがさく。
それをするのは はすじゃない。
たまごのなかから とりがでる。
それをするのは とりじゃない。
それにわたしは 気がついた。
それもわたしの せいじゃない。
泥の中の蓮が咲く、卵が孵化してひよこが出るのは、蓮やひよこの力だけではない。何か大きないろんな力がそうさせる。それに作者の金子さんは「気がついた」と言っています。
そしてその「気がつく」ということも、自分自身の力ではなく、何か大きな力によるものだと気づくことが「自分を知る」ということです。何でもない日常、私たちが生きているということも、気がつけば、自分の力だけではなく、何か大きないろんな力によって生かされているということがわかります。
私たちにはそんな、”すばらしいはたらき”が生まれつき具わっていると、ブッダは言われました。
にもかかわらず、私たちは、あれがない、これがないと、ないないづくしで不満を抱えている。せっかく具わった”すばらしいはたらき”を活かそうともせずに。
そんな私たちを戒めるのが、抜隊禅師の「耳に声をきき響を知る主は、さて是れ何物ぞ」の教えです。