こどもの眼に映るもの
(出典:書き下ろし)
幼な子の 次第次第に 知恵付きて 仏に遠くなるぞ 悲しき (古歌)
赤ちゃんはお乳を欲しいと泣き、満腹になったら眠ります。明日の分まで要求したり、嘘をついたりしません。今この時を無心に生きています。この清浄な心を「仏心」といいます。
誰でも仏心をいただいて生まれていますが、次第に身につく知恵や分別が、時にそれを見失わせてしまいます。
私共のお預かりしている寺の隣に、小学校がございます。授業中に境内で写生した絵を寺に下さったので、本堂に掲示しました。いただいたばかりの作品を見ていて、「この絵の屋根瓦の形は、なぜか三角形だ。こっちの屋根瓦の色、こういう色だったかな。やはり子供の絵だな」などと私は思いました。
ところが、です。作品を見た直後に、実物の建物をじっくりと観察して驚きました。確かに瓦が三角形に見える角度があるのです。そして、この色ではないと思い込んでいた屋根も、遠くから見ると描かれた通りの色に見えるのです。私の思い込みが本来の色、形を見えなくさせていたのです。子供の絵だ、などと私が思ったのは大変な失礼でした。
また、他のある絵は建物の軒下から見上げた構図でしたが、その位置からは見えない大きな屋根瓦も描かれていました。二か所の別の部分が、一枚の絵に描かれているのです。しかしこの絵が実に魅力的なのです。力強く描かれた瓦は、絵から飛び出すような躍動感に満ち溢れています。「この位置ではこう見えるはずだ」というような先入観にとらわれていません。自分で見て、いいなあと思った通り、心のままに描いてあります。
「お坊さん、一面しか見てないだろう。偏ってるなあ」。まるでそう言われているようです。驚きは恥ずかしさに変わってゆきました。
これは絵に限った話ではありません。例えば、無口な人や社交的な人の外面だけを見て人柄がわかったつもりでいると、その人が元々持っているたくさんの魅力に気付けないままになってしまうことがあります。
他人と比較して不満や自己嫌悪を感じるのも、私たちが身に付けた分別のせいでしょう。
ありのままの清浄無垢な心、仏心。私たち人間はみな、この仏心をいただいて生まれています。しかし、知恵や分別のせいで見失っていませんか。せっかく目の前に素晴らしいものがあっても、心の眼が曇っていると見逃してしまいます。
今日の「私」は仏心から遠くなっていないでしょうか。一日一度は心静かに、ご自分の心のありようを点検してみませんか。