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おかげさま

(出典:書き下ろし)

myoshin1311b.jpg 今月は”感謝”の月です。それは勤労に対する感謝であったり、農作物の収穫を終えての感謝であったりします。私共の寺でも開山忌に合わせて、ご先祖に対する報恩の供養をお檀家の皆さんと行なう月でもあります。
 私たちは生まれてから今日まで、多くの方々とのご縁や自然の恵みの中で生かされています。この事実を心で本当に感じる時、「おかげさまで・・・・・・」と自然に言えるのだと思います。御陰様という言葉には必ず、「自分以外の何かによって、自分に幸せをいただいている」という事が含まれています。そこに気づいてこそ「おかげさまで」、「ありがとう」という感謝の気持ちが言葉で表現できるのです。
 ある新聞の読者コーナーに「感謝」というテーマで19歳の若者が投書していました。「感謝というものは、親や他人に強要されるものではない。自分が納得してこそ感謝の気持ちになれるものである」。なるほど、そうだなぁと思っていましたら、数日たったある日、今度は別の20歳の若者が投書の中で反論をしていました。「いつだったか、感謝の強要は感謝でないとありましたが僕は違うと思います。親や他人はわけもなく感謝を強要しますか?・・・・・・すなおに受けるべきです」。この二人の若者はたった一歳しか違わないのに、その考えがまったく違うのです。なぜでしょうか。
 人間の心は本当に不可思議なものです。生まれた時は誰しも真っ白で純粋な心であったのに、いつの間にか、その考え方が違ってきます。その原因はどこにあるのでしょうか。心とはいったい何でしょうか。
 『般若心経』というお経は、こうした心を「無」とか「空」と表現しています。もともと心は生まれたり滅したりしない。増えたり減ったりしない。しかし長い間に色々な心がつきまとってしまい、本来の心が見えなくなってしまうことを説いています。
 般若心経では、そこを「とらわれない心、こだわらない心、すなおな心」と教えています。
 人間誰しも欲にキリがありません。しかし、「あっ!足りている」と思えば、そこに「ありがたい」と素直に言えるのです。
 私たちは、日常生活の中で、ただ利便性だけを求める生活から、たとえ不便であっても自然の中で、その恵みに感謝できる「知足」のくらしをつづけたいものです。

  かんしゃくの 苦(く)の字を取りて 暮らしなば
               いかにこの世が 楽しかるらん

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