子供が遊ぶように…
(出典:書き下ろし)
「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね~」。童謡「ぞうさん」で知られる詩人のまどみちおさんが、その著書『いわずにおれない』でこんなことをおっしゃっていました。
この世の中には生きものがごまんといますが、みんなそれぞれに違っている。もし同じだったらつまらないし、なんの進歩も発展もないでしょう? 違うから素晴らしいんですよね。(中略)人と比べて自分のほうが偉いように思ったり、逆にダメなように感じて人をうらやんだり、人のマネをしたりするのは、一生懸命でない証拠なんじゃないかなぁ。小さな子どもは遊ぶとき、それに没頭して無心で遊びます。あんなふうに、自分の目の前のことに一生懸命取り組んでおれば、つまらんこと考えとる暇はないと思うんです。
思わずドキッとしました。自分の人生を振り返ってみると、思い当たることがたくさんあって・・・・・・。
老いぞとて 心ゆるすな 名ぞ立たん 我が住む処(いお)は 姥懐(うばがふところ)
こちらは臨済宗の御本山の一つ、方広寺を開かれた無文元選禅師がお詠みになった和歌です。奥山流御詠歌教典の解説によれば「老齢になったけれど、名をけがさぬよう、心を引きしめて日をおくろう。私の最後の処世(世わたり)は姥懐」という意味になります。ちなみにこの歌に出て来る「姥懐」とは、禅師が晩年を過ごされた方広寺がある、浜松市引佐町奥山付近の古い呼び名であります。しかしこの和歌が示す「姥懐」とは、実は単に土地の名前を歌っているだけではないのです。
おばあさん(姥)の懐に抱かれ安らかに過ごすのは誰でしょうか。それは赤ちゃんです。赤ちゃんには大人のような分別はありません。無心に泣き、無心に笑い、無心におっぱいを飲む。自分と他人を比較して悩んだり、過去の失敗を引きずったり、未来のことについて不安に思ったりしません。いつもただ「今」を一心に生きています。
しかし、私たちは大人になるにつれ、「勝った、負けた」「損した、得した」「自分と他人」といった分別を身につけ、いつのまにかその分別にとらわれるようになります。その結果、自分よりも良い環境にある人を羨んでみたり、自分よりも成績の悪い人を低くみたりすることもあるでしょう。また過去の失敗をいつまでも悔やんだり、未来への不安に押しつぶされてしまったり、ということもあるでしょう。そんな失敗をしがちな私たちに「成長してから覚えた分別にしばられないようにしなさい、赤子のように、無心に『今』を生きなさい」ということを開山様はこの和歌を通してお伝えになられたのです。
さて、今日の私は子供が無心で遊ぶように、いま目の前にあることに一所懸命取り組んでいるでしょうか。赤ちゃんのように『今』を一心に生きているでしょうか。時々は一息ついて、自分は「今を生きているか」、見つめなおしてみませんか?