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大きな忘れもの

(出典:書き下ろし)

myoshin1309a.jpg 私の寺の檀家に、おやっさんという明治の女性がいました。長寿日本一になり、14年前に114歳で天寿をまっとうされた方です。何を見ても「ありがたい、ありがたい」と掌を合わせ、「天知る、地知る、人が知る」が口ぐせでした。

 一昨年の夏、リトアニアで、彼女の口ぐせをかみしめる経験をしました。リトアニアは旧ソ連から独立して、バイオテクノロジーで経済成長し続けていますが、庶民の生活レベルはまだ苦しい国です。
 首都ヴィリニュスに滞在中、日に4、5本しかない列車で100キロ離れたカウナスに出かけた日のことです。ここは「命のビザ」で有名な杉原千畝の記念館がある街です。杉原は、第二次大戦中、ナチスに追われたユダヤ人たちの求めに応じ、本国の意向に反してまで手書きのビザを発行し続け、彼らを救った外交官です。
 一日カウナスで過ごし、帰りの列車に揺られていると、車掌さんがやってきて、こう尋ねました。
 「クレジットカードを持っているか」。
 なぜクレジットカードの有無を確認するんだろう。つい身構えてしまいました。それでも念のためショルダーバックを確かめると、中にはカードはおろか財布すらありません。駅までのタクシー代を支払った時には確かにあったのですが。事の次第はこうでした。
 「タクシーの運転手から連絡があり、客が後部座席に財布を見つけたとのこと。たぶんその前の客が落としたものだろう。前の客は東洋人の夫婦でヴィリニュスに戻ると言っていたから、この列車に乗っているであろう。往復のタクシー代を支払ってもらえるなら、ヴィリニュスまで届けるがそれを確かめてほしい」。
 私は二つ返事で頼みました。もう取りに戻る列車はなかったのです。ヴィリニュスに着くと、鉄道警察の方が「のどは渇かないか」、「お腹は空かないか」などと、細々と気を遣ってくれました。やがてタクシーが到着しました。初老の運転手は「きっと困っているだろうから飛ばして来たよ」とにこやかに、「財布の中身を確かめてほしい」と言いました。請求されたのは往復の料金だけ。チップも謝礼も受け取ろうとはせず、「客が”財布が落ちてるよ”って自分に渡してくれたから」と当たり前のことをしただけという感じです。何とか強引にお礼を渡して感謝の言葉を繰り返すのが私たちのできた精一杯でした。リトアニア人は8割がカトリック教徒で、人情がとても厚く、滞在中、胸熱くなる経験を重ねるにつけ、私が子供の頃の日本を思い出しました。

 40年前、インド留学中に、在駐の銀行マンに言われたことがありました。「日本人は大きなものを忘れてしまったね。ここにいるとそれがよくわかるんだ。君はお坊さんなんだから、頑張れよ」。
 日本人の忘れものはその当時よりさらに深刻になっています。リトアニアの旅はあらためてその忘れものに気づかせてくれた旅でした。当たり前のことを当たり前にする。おやっさんの口ぐせのありがたみに合掌です。

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