こんなとこにも「尊いいのち」
(出典:書き下ろし)
夕暮れ時、トンボが本堂に紛れ込んできた。外に出たいのかバタバタしながら、あちこちに身体をぶつけている。私も助けたいと思うがうまくいかず戸窓を開けとくしかなかった……。
今年の夏は暑い。それでもうるさいほど鳴いていた蝉がだいぶ落ち着き、夜にはコオロギやスズムシの声が聞こえだした。
暦の上では白露。草に降りる露が寒さで白く見えるという。確かに暑さの中に秋を身近に感じることができる。夜明けも遅くにやってきて、目覚めから汗ばむこともなくなった。私を含め、森羅万象、ほっと一息ついているよう。物思い耽るには最適だ。
あれは六月の初旬のことでした。富山県にある大本山国泰寺へ訪れ、管長様の虚室老大師にお会いする機会を得ました。緊張のあまり形ばかりの挨拶を済ませ頭を上げると、それを察してか管長様は気軽に声をかけて下さいました。
「布教師さん、今日はお茶会も開いているので一服いただきに参りましょう。」と言われるままに裏手の茶室を尋ね、抹茶を頂きながらしばらく談笑していると、緊張も和らいできます。そんな気分の中、茶室をあとにし帰り際、管長様は参道の片隅に咲いている一輪の花に目を向けたのです。
「おうおう、エサもやらんのに良く咲いてくれたなあ」と。その時は「えっ!」と一瞬思い、とてもお茶目で微笑ましい一言に感じられただけでした。でも、よくよく考えると、誰が道脇の名も知れない花に目を向けるのでしょう。現にお茶会に行き来する方達は誰も気がつかないでいました。それなのに管長様の一言はけなげに咲く花に労いと愛おしさを感じていたのです。また「エサもやらんのに」という言葉も、味わい深く、植物の「いのち」というより、もっと尊い「いのち」として花を見ていたにちがいありません。
盛夏から残暑にかけて遠慮ない暑さにいらだちを感じていれば気づかないことも、ほんの一息つくだけで、素晴らしい教えがあったと気づけるのです。
翌朝、本堂に行ってみると昨日のトンボは既に死んでいました。トンボの「いのち」を尊い「いのち」と感じることはまだまだ私にはできませんが、それでも「外に出たかったろう」と思いを馳せることはできました。これから秋を迎え、トンボどころか蝉やコオロギの声も聞こえなくなっていくでしょう。
「虫たちのいのち」に尊い命と思えるような感傷的な気持ちになるのも秋さながらの風光と思いつつ、夏の疲れが出たのか、物思いに耽るのが飽きたのか、ウトウトと眠気が襲ってきました。
これもまた秋の良き風光か?まだまだ私、修行が足りません。