「災害と向き合って」~希望の灯火~
(出典:書き下ろし)
釈尊には舎利弗と目犍連という高弟がおり、このお二人を跡継ぎにしたいとお考えだった。しかし目犍連は暴漢に襲われ、また舎利弗は突然の病によって急死する。釈尊のお悲しみは深く「今私は二人の思い出にのみによって生きている」とまで仰る。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』
“親しい人を先に亡くす”という苦しみの中に生きていることにおいては、大いなる悟りを得た釈尊も我々と同じなのだ。ただ釈尊が違うのは、理不尽に襲いかかる悲しみの中にも、取り乱すことがなかったということだ。「まるで光を失い、真っ暗闇に落ちたようだ。そういう時でも、足下を照らし歩かねばならない。自分自身を灯明とし、他人ではなく、正しい教えのみを頼りに、生きなければならない」。心を常に正しく保ち、自分自身の力で生きていく。この教えは”自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)”と呼ばれ、仏教徒の希望の明かりとなっている。
先の大震災で被害の大きかった南相馬市に「相馬野間追(そうまのまおい)」という祭がある。騎馬武者が町を駆け抜ける勇壮な祭だ。毎年祭に参加してきたKさんは、奥さんと長男一家を津波で失う。「自宅にいた私を皆が心配して探しに来てくれたんだ。それで波にのまれたとすれば、私が殺したようなものだ」と、生きる希望を失っていた。しかし自宅跡から掘り出した祭の旗印を手にした時、受けついだ行事を絶やしてはならないという思い、同じ悲しみを背負った沢山の人々の思い、そして家族の笑顔が胸に蘇る。やがて悲しみを振り切って、Kさんは祭に復帰する。
「おとうさんはね、一人でもがんばるからね」。絶望で真っ暗だった心に、再び明かりが点ったのだ。涙をこらえることは出来ないが、失われた御命に恥じぬように生きていこうという決心。即今只今に生きる、強く美しい命の姿だ。
震災から二年半。一度は消えてしまった被災者の心に、再び明かりを点すのは容易ではない。しかし心に希望の光がなければ、本当の復興にはならないのかもしれない。我々に出来ることはなんだろうか。
それは、一度消えた蝋燭に、もう一方の蝋燭から移し火をするように、希望を吹き消された人々の心に、私達の心をぴったりとよりそわせ、再び希望を点してさしあげることだ。東北の悲しみを忘れずに、いつでも思いを致し、真摯に向き合い続けようとすることで実現する心の移し火を、私たちが望み、叶えようとし続けることだ。遠く離れた地からも受け渡されていく「心の灯明」は、いつの日かきっと被災地の方々の心に明るい光を与えるものになるはずだ。
そのためには、常に私たち自身が「自灯明法灯明」を掲げ、いつも正しく釈尊の教えと共に元気で生きなければならない。己の心の明かりは輝いているか、毎日のお参りで確認しようと思う。それこそが未来へと受け継ぐべき、希望の灯火に相違ないのだから。
※平成25年 相馬野間追開催日程 7月27日(土)~29日(月)