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天下の人の与(ため)に蔭涼とならん

(出典:書き下ろし)

 七月に入り、緑陰の涼しさが肌に心地良く感じられる季節となりました。掲題の禅語は、『臨済録』に収められております。臨済宗の宗祖である臨済禅師がまだ修行僧であった頃、厳しい修行を行なっているにもかかわらず、どうしても次の段階に進むことが出来なかったときに、心配した兄弟子である睦州和尚(ぼくしゅうおしょう)が、師匠である黄檗禅師に、「彼は必ず一株の大樹となって天下の人に、包み込むような緑陰の涼しさをもたらすでしょう。彼が辞めたいと言ってきてもどうかご指導をお願いします」と進言したという話にある言葉です。

myoshin1307b.jpg 就職をし、2~3年経った頃のことです。ふと縄文杉を見たいと思い立ち休日を利用して屋久島に向かいました。鹿児島から船に乗り、屋久島の港に着きました。宿泊先であるユースホステルに向かうバスの中で、港で手にした地図を広げ確認すると、宿から縄文杉への登山口まで大変な距離があることに気付きました。私は勝手に屋久島を小島と勘違いし、島のどこからでも縄文杉を見ることが出来ると思い込んでいたのです。乗客の方に質問をすると、やはり思った通りで、早朝は宿泊場所から登山口までの交通機関がありません。自らの軽率さを責め、せっかく来たのにどうしようと頭を抱えていると、その様子を察した一人の方が声を掛けてくださいました。
 「おじちゃんが明日の朝、車で迎えに来て登山口まで送ってあげるから、心配しないでいいよ」。
 翌日まだ夜も明けきらぬ頃、宿の前で待っていると、その方が真っ暗な闇を切り裂いて迎えに来てくださり、登山口へと送ってくださったのです。そして、何とか縄文杉をこの目にすることが出来たのです。迎えがなければ、その日の内に下山まで終えることは難しかったでしょう。長い年月を歩んできた大樹の包み込むような緑陰の涼しさとともに、木漏れ日のようなおじさんの優しさもまた私の心と身体に癒しをもたらしてくれたのです。
 私たちは木陰で和むとき、その涼しさにのみ心を奪われがちですが、ふと思いを巡らせますと、その一株の大樹が枝と葉を生い茂らせるまでに成長する過程で多くの物語があったことに気付かされます。
 改めて、掲題の禅語を味わってみますと、そこには臨済禅師が現在まで続く臨済宗の宗祖という一株の大樹となられるまでに、色々な方に支えられながら成長していった様子を窺い知ることが出来ます。世の人全てに緑陰の涼しさをもたらすことはなかなか出来る事ではありませんが、せめて目の前で困っている人だけにでも自分の出来る範囲で手を差し伸べたいものです。

  咲いた花見て 喜ぶならば 咲かせた根っこの 恩を知れ (出典は不詳)

 緑陰の涼しさに一息ついた後は、その根にある温もりに思いを馳せるのも向暑ならではの楽しみではないでしょうか。

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