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真の学びとは -啐啄同時-

(出典:書き下ろし)

rengo1305.jpg 現代社会は、学校ではいじめが常態化し、スポーツにおいても体罰が当たり前のように行なわれ、さもそれが日本のスポーツの伝統と言わんばかりの言動が目に付いております。以前は、学校の先生やスポーツ指導者も、生徒や競技者を第一に考えた愛情という裏打ちがあって、共に考え、共に汗を流し、共に歩んでいったものでした。だからこそ、生徒や競技者が育ち、より良い後継者の育成にも繋がっていったのだと思います。
 今の世の中は拙速に、学校であれば、良い成績を残していかに優秀な上の学校に行けるか、競技者であれば、その努力の過程よりも成績だけが重視されるようになって、どれだけ勝てるか、を求めているようです。それゆえ、偏差値は上がったけれど、社会的には適応出来ない人間、競技者としての成績は優秀でも、後継者を育てる愛情を知らない指導者が多く見受けられるようになったのではないでしょうか。暴力や強制、体罰だけでは決して、人間としての精神自立は生まれません。
 我々、禅僧が学ぶ、『碧巌録』の中に「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。これは卵から生まれようとする雛鳥が、殻を破ろうと内側からコツコツやるのを啐(そっ)といいます。また、親鳥が殻を破るのを助ける為に、外側からコツコツとやるのを啄(たく)といい、これが同時に行なわれてはじめて、無事に雛が誕生することを言います。
 指導者と競技者、先生と生徒、親と子など、他にも色々とあるでしょうが、「啐啄同時」。お互いが雛と親鳥のように、認めあっているからこそ、その時を見極める事が大切なのです。親は無理やり殻を破ってしまえば、雛は死んでしまうでしょう。雛も自分が卵の中で十分に育っていない時に、殻をコツコツしてしまえば、それもまた、死に繋がります。そのぎりぎりの所を捉えてこそ、最高の結果に繋がっていくのではないでしょうか。
 暴力や強制だけでは、養育とは言わず、教壊(きょうえ)と言い、無理やり押し付ける事によって、その人の良いところまで破壊してしまう事を言います。真の教育、人を育てる事は、互いの人格を認め合い、励まし合いそして、共に歩むという事によって成り立つのではないでしょうか。

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