花まつりに寄せて
(出典:書き下ろし)
桜前線はどこまで北上したでしょうか。東北の地も、また、美しく桜色に装われている頃かと思います。
百花爛漫の春、4月8日は釈尊生誕の日。各寺院では、色とりどりの花で御堂を飾りお祝いをします。
釈尊のご一生を思いますと、35歳でお悟りを開かれ、80歳でお亡くなりになるまで、45年の永きに亘り、一定の所に留まる事なく行脚をし、布教をされました。途中、ご病気になった事も、腰痛に苦しまれた事もおありであったと知りました。そして、最後のお供えを頂いた後に体調を壊され、その施主を恨む事もなく、安らぎのなか入滅されました。
失礼を承知で申し上げるなら、釈尊は、大変謙虚で枯淡なお方であったと思います。
「拈華微笑」は、迦葉尊者に法を伝えた時の様子を表わした語句ですが、私達に向けて、釈尊が花を示して下さったとします。それぞれがどのように解釈したらよろしいでしょうか。
無心に咲く花のように、自らに与えられた使命を全うし、ご縁ある方々には、精一杯の気持ちで接するという事でしょうか。
釈尊はこの世間を無常で、堅固でなく、実質のないものだと教えられたと弟子達は口をそろえています。わかりやすくいえば、世間は寄り合い、依(よ)り合い縁(よ)り合って成り立っているということです。生物であれ、無生物であれ、すべて依存して、つながり合って、それらが寄り集まっているところが世間です。
世界は神が創造したと他宗教ではいいますが、釈尊は世間に存在するものはみな衆縁和合しているという道理を説かれ、みなかかわりと依存によって生滅しているから、形づくられたものはみな無常である(諸行無常)と説かれたのです。
無常であるが故に、謙虚に我が身の一挙手一投足に気持ちを払い、縁ある方々には礼儀を尽して接してゆかねばなりません。
大徳寺の開山、大燈国師の遺誡の中に、「光陰箭の如し、謹んで雑用心する事莫れ」とあります。矢は箭としるされておりますが、人生、最後まで、前へ前へと進まなければいけないよという教えではないでしょうか。
大いなるものに抱かれあるという信心を持ちながら、「歩々清風を起こす」が如く日々暮らしてゆきましょう。 合掌