法話

フリーワード検索

アーカイブ

今、ここにある彼岸

(出典:書き下ろし)

rengo1303b.jpg 「和尚さん、あの世ってあるんですか?」
 もしかすると生きている人間が一番気になる事なのかも知れませんが、こればかりは実際に自分で死んでみないとわかりません。仏教では本来「無記」という、あるともないとも言わない立場を取ります。あの世を見たという人が、本気で言っているのか嘘をついているのかわかりませんし、本気で言っているとしても夢でも見たのかも知れません。
 私は幼い頃、二重の脳内出血で死にかけた事はありますが残念ながらあの世は見ていません。しかし私が見ていないからと言って無いとも言い切れません。単に見る能力に欠けているだけなのかも知れませんし忘れているのかも知れません。つまりどちらにしても推測でしかないのです。それで生き方を左右されるべきではないというのが仏教の考え方なのです。しかしこれはあくまでも魂と魂の行き先に関して、あるとも無いとも言えないという事です。
 一方で私には確信を持って言える死後の世界もあります。それは亡くなられた仏様は、この世から消滅するわけではないという事です。残された遺骨だけが仏様ではありません。灰となって煙突から飛んで行かれ、空に舞っているかも知れませんし、大地に降り注いで栄養となり、次の年に花を咲かせるかも知れません。人の体の六割が水分なら、蒸発された仏様は当然、海や川に溶け込んでいらっしゃるかも知れませんし、雨となって降っていらっしゃるのかも知れません。ひょっとしたら私達の体の中にも既におられるという事もあるでしょう。仏様は目には見えなくなったものの、この世界に溶け込んでおられるのは間違いないのです。問題はその事実に気付く事ができるかどうかなのです。

  仏は常にいませども 
  現(うつつ)ならぬぞあはれなる
  人の音せぬ暁に
  ほのかに夢に見え給ふ (梁塵秘抄)
 
 目に見えないものと有りもしないものは、似ている様で全く違います。仏様は常にお傍にいらっしゃるのに、目に見えないのが残念ですが、目に見えないからこそ尊いのです。見方を変えれば、彼岸というのは遠く離れた特別な世界ではありません。既に私達は彼岸にいるのに、気付いていないだけなのです。

Back to list