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別れてからの供養とは

(出典:書き下ろし)

rengo1302b.jpg 一月は「行く」、二月は「逃げる」、三月は「去る」と言うように、年明けての年度末はあっという間に過ぎてしまいます。年度末というと「卒業・進学・退職・就職」等、新しい社会に進んでいく時期と同時に、人と人との別れの時期でもあります。
 人との最大の別れは、やはり「死別」であります。仏教で言われる苦しみの一つに「愛別離苦」と言う、愛する人と別れなければいけない苦しみがあります。それは苦しみであって、決して「悪」ではありません。
 そんな時はどうしたらいいか。悲しみましょう。それが一番の供養です。勿論、悲しむばかりではいけませんが、今の悲しみは、今しかできない事です。
 しかし、決して故人を哀れだとか、可哀想だとかは思わないで下さい。それは故人を否定してしまう事になります。人には尊厳があります。その尊厳は人の「生」は勿論、「死」にもあるのです。その人にしかできない生き方があり、亡くなり方があるのです。
 勿論、「死」が決して自らが望む事、望んだ事とは限りません。しかし、「生」から「死」までを含めて、各人それぞれにしかできない事なのです。
 仏教では、人は皆、また人に限らず全ての物は観音様の化身であると説かれています。故人も観音様、故人の遺族・親族も観音様、故人と縁のある方々、皆が観音様で繋がっていると言えます。「命」とはこの世での生が終わっても、繋いでいく事ができるのです。それは「縁」であるとも言えます。そして「命」を「縁」を繋げていくには、故人の尊厳ある「生」と「死」を受けて、私達が今、なすべき事をなす事です。
 涅槃図、お釈迦様が亡くなられる時の状況を描いた絵をご覧になった事があると思います。横になられているお釈迦様を中心に、修行を積み、悟りを開いた多くのお弟子さん達も菩薩様も鬼神も動物も皆、お釈迦様とのこの世の別れを悲しんで泣いています。
 しかし、その後、お釈迦様はどうなったか。多くのお弟子さん達が頂いた教えを繋ぎ、二千五百年以上すぎた今も、仏の教えの中にお釈迦様はおられます。それはお釈迦様の「命」を「縁」を受けた方々がなすべき事をなして頂いたからです。
 仏教では、人は皆、人に限らず全ての物は観音様の化身であると申しましたが、その観音様を詠んだ歌があります。

ろうそくは 我が身を減らし 人照らす

 別れた故人の光に、私達自身、私達の進む道が照らされ、私達の光が、故人を、故人の進む道を照らす事ができるのです。その事に感謝をし、その光を無駄にしない事が故人への供養ともなります。
 奈良時代の僧侶、行基菩薩が亡くなった父母を偲び詠んだ歌があります。  

山鳥の ほろほろと鳴く 声きかば
             父かとぞ思う 母かとぞ思う

 物理的な別れを超えて、そこから生まれる新しい「命」を「縁」を皆で繋いで参りましょう。宜しくお願い致します。

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