おかげさまの中で生きる
(出典:書き下ろし)
川柳に次のような句があった。
今日もまた 読みたくない記事を 読まされる
今日もまた 血圧あがる 記事を読む
まったくもう……という落胆とともに、なぜなのか……という悲嘆が口を撞いて出てくるニュースが多い。
仏教では、世の中が乱れてくる事を「五濁の世」と表わしている。その中に煩悩濁・衆生濁というのがある。
人々が利己的となり、便利主義を追い求め、自らの欲望のほしいままに行動するがゆえに、他との協調性が失われてしまう。更に、真実語の会話が少なく、雑音語が独り歩きし、何を信じ、何を目標とするかが見えない世というのである。それ故、生命軽視の殺人や騙し騙されたという事件が起こってくるというのである。
しかし、私たちは一度しかない人生をどう生きるかを考える必要がある。
もし今、「あなたは幸せですか」という問いを受けた時、それに対する反応は、他人の持ち物に対して自分は、という事を判断材料としてしまうのではないか。また、今日は天気が良いですねという会話も、昔は、晴れなら洗濯ができる、布団が干せる。雨なら作物が育つ、おかげさまで……という言葉がその会話の中にはあった。それが今では、天気予報が良く当たるね、という現実回答が会話なのである。そこには生かされているという感謝のこころはなく、自らが生きているという自己中心的な考えが含まれているのではないか。
会津八一先生は、自らの生命の活かし方を次のように説いています。
深く己の生を愛すべし 省みて己を知るべし 學を以て生を養うべし 日々真面目あるべし
私たちは、親を選ぶ事も家を選ぶ事もできない。親もまた子を選ぶ事はできないのである。まさに偶然な生命の誕生である。そして、その生命が他の生命によって支えられているのである。ここに「おかげさま」の心がある。この事実を自覚して生きる時、他を思いやる謙虚さが生まれ、共生きの真の日暮らしが生まれてくるのである。
自己の存在を自覚して生きる事が、人生を生きてゆく上で必要不可欠な事なのである。