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トイレで出会う仏様

(出典:書き下ろし)

myoshin1211b.jpg  「おい!雪隠掃除はしたか?」これは20年前の11月に亡くなった祖父が口を酸っぱくして言った言葉です。この「雪隠」は仏教用語でトイレの事を指しますが、一般的には「便所」、「厠」、修行道場では「東司」「西浄」等、色々な呼び方があります。中でも「雪隠」と聞くと、昔ながらのボットン便所をイメージされる方も多いのではないでしょうか。
 何故トイレを「雪隠」と呼ぶのかと申しますと、諸説ありますが、「雪」には「すすぐ」、「隠」には「不浄」という意味があり、不浄をすすぐ、つまり「排泄物をすすぐ」という事に由来しています。しかし、現在では「雪隠」と呼ぶ方も少なくなり、多くのトイレが見た目も綺麗な水洗便所に変わっております。
 トイレは、人が集まる場所には必ず必要で、トイレがないと本当に困ります。我々はご飯を食べたら必ず排泄しなければ生きていけません。しかし、私達はどんなに必要であると分かっていても、どんなに見た目が綺麗になっても「トイレは汚い・臭い」というイメージが強く、トイレ掃除を率先してする方は少ない様に感じます。
 しかし、禅寺ではトイレ掃除を非常に大事にしており、大切な修行の一つに挙げられます。「不浄の掃除は心の浄化」という言葉もあり、誰もやりたがらないトイレを掃除する事が、自分の心の掃除にもなり、私達が持つ煩悩や苦しみも一緒にすすぐ事が出来ると言われております。
 禅の修行の中で大切な禅問答の中に、「仏とは何ですか?」と問うものがあります。それに対し「乾屎橛」と答える所があります。この「乾屎橛(かんしけつ)」とは、「糞かきべら」または「糞(排泄物)」そのものを指しております。
 私達は「仏様」と聞くと、金ぴかに輝いた何だか素晴らしいものを想像してしまいます。しかし禅問答では、仏様を表わすのにみんなが不浄だと思っているものを持ってきているのです。つまり、仏様とはそんなキラキラと輝いているような素晴らしいものではなく、綺麗とか汚いとかそういう所を越えた、毎日繰り返される生きる営みそのものの中にあるんだ、という事なのです。そんなごく身近におられる仏様を、我々は「臭い・汚い」と言って敬遠してしまっているのです。
 自分自身では決して見る事の出来ない身体の中を通ってきた尊い仏様を、これからは感謝の心で向き合ってみては如何でしょうか。そして、その時サッとトイレの掃除もする。そうすれば、トイレに行く度に仏様に出会え、更には心の掃除までできます。この実践を日々の暮らしの中でする事が、祖父の供養にも繋がってくるのだと思います。皆様も今日からトイレに行く度に「仏様に出会う」という心を持ってみては如何でしょうか。

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