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宝石となった石ころ

(出典:書き下ろし)

myoshin1210b.jpg だいぶ秋も深まって参りました。田んぼの稲穂も頭を垂れて、ちょうど今が刈り入れ時です。
 私が修行をさせて頂きました修行道場では、十月下旬に一週間の遠鉢(泊りがけで遠方まで托鉢に出ること)に出かけます。托鉢に出ると色々な物を頂きます。一円玉をインスタントコーヒーの空き瓶一杯に貯めたものや採れたての野菜を抱えきれないほど頂いたり、ときには日本酒の一升瓶を頂くということもありました。
 禅語に“三八九を明らめずんば境に対して所思多し”という言葉があります。自らの心を明らめる(調える)ことができなければ、煩悩の絶え間がないという意味です。
 禅の修行道場では1と6(或いは3と8)の付く日というように、定まった日に托鉢に出ます。あるとき托鉢に出ると、まだ幼いお孫さんの手を引いたお年寄りと出会いました。お年寄りは「お賽銭です」と言いながら小銭を差し出し、掌を合わせます。それを見ていたお孫さんも足下に転がっていた石ころを拾って、見よう見まねで同じように差し出し、掌を合わせます。私も合掌をして、素直に石ころを受け入れました。そこには何の悪意もなく、また不服もありません。ただお互いに合掌し、有難うという心があるのみです。
 子供は大人の真似をしながら成長していきます。大人がお米やお金を布施する姿を見て、何かをお坊さんにあげてみたくなる。これが仏心の芽生えとも言えるのではないでしょうか。そして、互いに合掌をして受け渡された石ころ自体もただの石ころではなく、仏の教えがしみこんだ宝石となります。
 「お年寄りに十円もらって有難う、子供らに石ころもらって有難う」という“貪りを離れた心”がお釈迦様と同じ心であり、布施する側も“執着する心”を離れる仏道修行となります。
 富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着することから苦しみ悩みが生まれます。結局は私たちの心から苦悩が生まれてくるのであり、悟りもまた私たちの心から生まれてくるのです。自分自身で心を調え、明らめていくことにより、実り多き人生を歩んでいくことができるでしょう。収穫前の稲穂を見ながら、我が身を省みる日々であります。

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