美しい合掌
(出典:書き下ろし)
お彼岸が近くなってきますと、お墓参りの方々が本堂にも上がってお参りして行かれます。私のお寺のご本尊は如意輪観音ですが、多くの檀家さんは「ナンマンダ、ナンマンダ」と手を合わされます。
それを見ながら、私は以前に師匠が話してくれたエピソードを思い出し、ちょっと微笑ましい気分になります。その話というのは、師匠がまだ京都の道場で修業中だった頃の出来事です。
因みに私たち僧侶は道場での修行中、僧名の下の部分を取って呼び合いますので、私の場合は「圓俊」ですから「俊さん」となります。私の師匠は「石(せき)っさん」と呼ばれていました。
その石っさん、ある時、縁故のお寺の行事に出席する老師さまのお供をしておりました。老師さまの荷物をかかえて琵琶湖の近くの田んぼ道を歩いておりますと、畦の脇にお地蔵さんが奉ってあり、その前で一人のお婆さんが一生懸命「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えながら手を合わせています。それを見た石っさん、「おや?」っと思ったわけです。考えてみれば当然ですよね。お地蔵さんと阿弥陀さんは違います。山田さんに向かって、「ああ小林さん、小林さん、有り難たや~」なんて言っているようなものですから。それで石っさん、老師さまにこう申しあげました。
「あのう、老師、あのお婆さん、お地蔵さんに向かって『南無阿弥陀仏』と唱えているので、ちょっと行ってそれはお地蔵さんだから『南無地蔵願王菩薩』と唱えるか、または『オンカーカーカビサンマーエイソワカ』と御真言を唱えるのだよ、と教えてあげようかと思うのですが……」
そう言う石っさんの頭を老師さまはポカリ、と一発。
「ばかもの!お前さんには、あのお婆さんが一心に合掌し拝んでいる、あの姿の美しさが目に入らないのか!ナンマンダでもアーメンでもソーメンでも、そんな事はどうでもよいのじゃ!この頭でっかちめ!」
そう言われたということです。
心から手を合わせる時、もはや呼称もお題目も突き抜けてその想いは達している。ということでしょうか。
我々の「宗門安心章」には、「至心に合掌して、篤く三宝を敬うべし」とあります。元は華厳経の一節ということですが、仏法僧の三宝を敬う基本的態度が合掌である。ということです。実際私たち僧侶の生活からしてそうですが、一日が合掌に始まって合掌に終る。そして合掌は世界中どんな国のどんな宗派の仏教にも共通したポーズです。
そして確かに、尊敬できる和尚方の合掌はことごとく美しく感じるものです。
「石っさん」時代の師匠の轍を踏まぬよう、私は、檀家さんがうちのご本尊に手を合わせて、ナムアミダブツ、ナムアミダブツとお唱えしても、「それは阿弥陀さんじゃないよ」とは言いません。もちろん機会があればその場に応じて「南無観世音菩薩」「南無釈迦牟尼佛」とか三帰戒の「南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧」を唱えてみたらどうですか、とお話します。
ともあれ要はその合掌が至心に行われているか、すなわち真心がこもっているかどうか、そういうことだと思います。
至心に合掌する姿は美しい。私は先ほどの師匠のエピソードを思い出すたびに、それでは自分の合掌する姿は美しく見えているだろうか?とわが身を振り返るのです。