暑い寒いも生きてる証拠
(出典:書き下ろし)
快川紹喜国師最期の偈に、皆さんもよく御存知の「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)」がありますが、それにひきかえ、八月に入れば蝉のうるさい声に朝の静寂を遮られ、「今日も暑いな……」と毎年繰り返す自分に嫌気のさすところです。
先日、今年初めてのつくつく法師の声を聞き、ふと正岡子規の歌を思い出しました。
夕飯や つくつく法師 かしましき
鳴き声によりその名が付いたのでしょうが、別名法師蝉の薄くて透明な美しい羽根は、ちょうど夏袈裟のように涼しげで、「なるほどよくできているな……」と感心し、振り返って日本人の美的センスと思いやりについて考えさせられました。
夏になりますと、お茶やお花の先生方が、絽や紗の着物をとても涼しげにお召しになっているのを見かけますが、夏袈裟同様、着ている本人は涼しいのかと言うと、実は暑い限りなのです。しかし見ている相手は涼しいと感じるものであり、”相手を涼しくする”という日本独特の美的共生センスと思いやりが含まれているのではないかと思うわけなのです。暑さ寒さも、わが身一人が避けられれば良いものではなく、「わたくしを忘れて、共に世にあらん」という心に、見た目のみならず根底にある美しさを感じるのではないでしょうか。
地獄極楽の食事の時間、同じように長い匙が出てくるといいます。地獄にいる者は、必死になって誰よりも我先にと食べようとしますが、匙が長すぎて口に運ぶ事さえできません。極楽にいる者はというと、隣人にこそ食べさせてあげようと互いに与え合うため、難なく食事を頂いているというお話です。
今日の世界においては、弱いとされる立場の者が強い者のために働く事が当然となり、立場的強者といえば、弱者のために働くでもなく、志もなく、他者を無視して自分自身のみの利を求め、共生するという事を知らないように見えます。
私は死後の世界に行った事がありませんので、死んだ後の事は解りませんが、少なくとも、今極楽に居ないものが、どうして次に極楽の世になど行けましょうか。
土中七年、鳴いては七日。毎年毎年聴いているこの蝉の声を、受け継がれた命いっぱいの声を聞くことができなくなっている事にふと気づいて自己を省みて、日々のあたりまえの事とは、永久不変ではない事、無常であるからこそ有難く尊いのだという事を知り、そこに気づけた時、生きる喜びと勇気が腹の底から湧いてくるような心地がしました。