布施の心について
(出典:書き下ろし)
「布施」と聞けば、お寺への供養と思うのではないだろうか。お金、つまり財施である。しかし私は、最近この布施に関してあまり良い印象を持っていない。そこで今回、自己への戒めも込めて、布施の心というものを改めて考えてみたいと思う。
本来「布施」は、雨の日や日差しが強い日に布一枚を施して、役に立ててもらおうとすることが語源と聞いている。雨で濡れた体に布一枚では役に立たず、また雨よけ、日よけには不十分である。しかし、大切なのは、相手を思う気持ち、やさしさなのである。これこそが、本来の「布施」の姿である。
「布施」は大きく分けて「財施」「法施」「無畏施(むいせ)」の三つに分類できる。
「財施」とは、物質的なものを他人に施すことだが、大切なのはやはり心で、ただ与えるだけでなく相手を思う気持ちなのである。
『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』の展鉢のときに唱える偈文には、「如来の応量器、我今敷展することを得たり。願わくは一切衆と共に、等しく三輪空寂ならん」とある。「如来から頂いたこの器をここに敷き展べて、これから食事を頂こうとしている。願わくは全ての人々と共に、布施する人、受ける人、布施物の三輪がこだわるところなく、清らかな心で行なわれますように」という意味である。私も修行時代、托鉢を経験した。網代笠を被り頭陀袋を提げ街を歩き、お金やお米などを頂いた。「三輪清浄」と言う言葉はこの時に理解できたと思う。
「法施」とは、仏法を説いて聞かせることであり、僧侶の説教も布施になるのである。
「無畏施」とは、人に対して畏れない状態を施すことである。北海道の工場街にある病院での話だが、そこに入院したイギリス人の老婦人は、日本語は上手だがいつも孤独だった。ところがある日、彼女は看護婦に「すみませんが、ベッドを外の見える窓際に移してください」と頼んだ。翌朝、彼女は半身を起こして窓の下の工場へ行き来する人に軽く手を振りながら、微笑みかけたのだった。それに気づいた人達は、思わず顔をほころばせ、手を振り返す人もいた。まったく見ず知らずの人ばかりだが、この挨拶は毎日朝夕続いた。老婦人は同室の人々に「私はここへ入院してから、自分の一生を振り返ってみたの。そうして、人のお世話ばかりなっていて、一度も人のお役に立ったことがない。今からでもいいから、少しでも皆さんのお役に立てることはできないかと考えて、工場へ通う人達に手を振り微笑みかけて励ますことなら、私にもできると気づいたのよ」と話した。彼女はこの後に亡くなったが、それを知った工場では従業員達がサイレンを鳴らし黙祷をして彼女の冥福を祈った。老婦人のこの心こそが「無畏施」であり、人々に安らぎを与えるこの行為が「布施」の心の原点だと考える。
三島の龍澤僧堂の師家であられた山本玄峰老師は、「大いに心配をしなさい」、「心痛はいかんぞ。心を痛めるからな。でも、心配とは心を配ることだから千々に砕いて配らなくてはならない」と言われた。布施の心、是非実践したいものである。