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布施なき経は・・・。

(出典:書きおろし)

 禅寺の日常生活の三要素は、「一に掃除、二に看経(かんきん)(お経を読む)、三に坐禅」といわれています。「掃除」と「坐禅」については、私ども「禅」を行ずる者によく語られるのですが、「看経」となるとあまり語られていないような気がします。そこで今月は「看経」について述べてみました。
 私どもはよく法話などで、「清浄(しょうじょう)な心をお供えしてください」とか「~清浄な心が大切なのです」などと、「清浄な心」を簡単に説きがちです。しかし「清浄な心」って一体どんな心で、どんな時に生まれるのか分かりますか?
 私はそのお答えに「看経」を例に挙げてお話することがあります。ご法事では、住職とご一緒に経本を手に声を出してお唱えしていらっしゃることと存じます。その時の「ただひたすら一心に字面を追う」。そういう状況状態が「清浄な心」を生み出していると思うのです。多分皆さんは、住職と一緒にお経を読む際、字面を追うのに必死で頭の中で「今日の夕食は何だろう……、昨日の野球の逆転負けは……、子供が……」などと、日常の多事多様なことをおそらく考えていないことでしょう。ただ一心に無心にお経を唱えているそのお心こそが、まさに「清浄な心」だと……。
 同じように、一心に「掃除」をしている時、また、身体と呼吸と心を調えて「坐禅」している時も「清浄な心」が生み出されている状態だと考えてもらって結構です。
 最後に表題の話を。
 二十年近く前ですが、どこかの席である和尚さんが、「松原泰道さんも言っていたが、わしは、お布施の無い経は読まんのや」と仰られているのを聞いた事があります。
 勿論、故松原泰道師はそんな事は仰っておりません。松原師の「布施無き経は読むべからず」の真意は、「和尚さんが読むお経は、人々安心(あんじん)、安らぎを与える(布施する)ものでなければならない」という、私たち和尚側の心構えを説いたものなのです。
 本日もまた、皆様に安心を得てもらえるべく、しっかりと、「朝のおつとめ」から「看経」してまいります。

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