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清波、透路無し―月をみるとは

(出典:書き下ろし)

myoshin1108a.jpg 今夏は猛暑とは言わないまでも、例年より長くなるとか……。記録的に早い梅雨明けと併せ、秋の涼しさを知る頃も遅れるようです。東日本大震災で被災された方々や、加えて節電と暑さに堪え喘ぐ私達の暮らしにも思いをめぐらせます。
 過日、復興の「お手伝いをするため」と、被災地に立ちました。テレビ越しに見る映像とは違い、これが巨大な津波に何もかも飲み込まれてしまった姿なのかと驚き、いつもはその恵みを与える青い海の水面が黒い波となって牙をむいた惨事を恨めしく感じるばかりでした。

清波(せいは)透路(とうろ)無し」
 碧巌録三十九則に登場する雲門禅師の言葉です。禅師は、中国で五家七宗(ごけしちしゅう)※1と称される、臨済宗や曹洞宗と並ぶ禅宗の一派である雲門宗の開祖となった高僧です。
 ある僧が禅師に尋ねます。「仏法は水中の月の如し―仏法は水の中の月のようなものだ―といいますが、この通りでしょうか」。つまり、「真理というものは清らかな水面に映る月のようなもので、手に(すく)えば手の中にあり、水たまりができればその一つ一つに月が映る。それと同じように、随所に見届けられれば、立処皆な全て真理なのだといいますが、これでよろしいでしょうか」。といったような意味でしょう。
 禅師の答えは、「清波、透路なし―清らかな水であっても波が立てば、誰も入っていくこともできんわい」でした。
 水面に映る月の如しだからと、月を水面に探すのであれば、それは大きな誤り。波が立てば月が揺らいでしまうのと同じように、仏法もどこかへ消えてしまう。手に掬った水があるから月が映るのではなく、月があるから手に掬った水の中にも観ることができるもの。いまだ証拠せざる無位(むい)真人(しんにん)(※2)が「清波、透路無し」。月を観るとは、同時に自己を観ることでなければならないのです。

 家屋家財ばかりか大勢の生命までもが失われ、荒涼とした状況ながらも、生活を調えんとする一点の陰りもない純粋な姿があります。そこに、我が過ちを知りました。
 「衆生本来仏なり、この身即ち仏なり」と言いますが、被災者のために行くからこそ尊いのだと思い込んでいた私は、「水の中で渇を叫ぶ」おこがましい偽仏だったようです。水にこそ月ありと、行くことに執着してしまった私こそ「清波透路なし」、黒い波の災いから復興を遂げんとする姿に導かれたのでした。

  月や我 我や月とも分かぬまで 秋の心は空にぞ有りける(藤原季経)

 波立てども映る月に、再びかの地を訪ねたいと思うこの頃です。

(※1)五家七宗…他に法眼宗、潙仰宗と臨済宗の黄竜派と楊岐派を含む。
(※2)いまだ証拠せざる無位の真人…自己に仏心が備わっていると信じられない者。「赤肉団上に一無位の真人あり~未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」(臨済録)

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