法話

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卯年にちなんで

(出典:書き下ろし)

rengo1106.jpg 兎(卯)というと、か弱いイメージがありますが、実際には繁殖力が強く、「産み易し」の「う」が語源ともなっています(『日本語源大辞典』)。身近な動物ですから、仏教説話の中にも多く登場しますが、その中でも壮絶なものが、自分の身を老夫に捧げた兎王本生譚(とおうほんじょうたん)でしょう。
 この世の初めの頃、ある林に狐・猿・兎がおり、仲良くしていました。時に帝釈天がこの三匹の仲良しを試験しようとして、一人の老夫に姿を変えて現われ、こう言いました、「私はいま腹が減っています。何か食べ物を下さい」。三匹は「ちょっと待って下さい、いま探してきます」と言って食物を探しに行きました。
 しばらくすると、狐は魚を、猿は果物を持ってやって来ましたが、兎だけは手ぶらで帰ってきて、そこら辺を跳んで遊んでいます。老夫は「あなた方は本当に仲良しではありません。狐と猿は十分に食べ物をくれましたが、兎は何もしていません」と兎の悪口を言いました。それを聞いた兎は、狐と猿に「たくさん薪を集めて下さい。いま食べ物をご覧にいれましょう」と薪を集めさせて、それが(うずたか)く積み上がると火を点けさせました。
 兎は「ご老人、私はどうしても食べ物を探すことが出来ませんでした。どうか私のこの小さい身体をもって一度の食事に当てて下さい」と言い、火に飛び込みました。老夫は慌てて助け出しましたが、もう兎は生きてはいませんでした。
 老夫の身体から姿を変えた帝釈天は嘆息して、この事跡を滅ぼさないように月の中に兎を残しておいたといいます。そして、その兎は、釈尊がまだ世に出られる前に、兎となって修行をされていたお姿でした(『大唐西域記』)。

 この壮絶な話は何を伝えようとしているのでしょうか。いろいろ解釈はあるでしょうが、私達は、普段生活している時、何でも狐や猿のように他から探して持って来ようとしてはいないでしょうか。あれがない、これがないと自分の外に理由を求めてはいないでしょうか。「自分の幸福はどこにあるのか」と、外ばかり探してはいないでしょうか。
 兎はそれがどこを探しても無かったが為に、自分の身に既に具わっていることに気付いたのです。気付いた兎はもう慌てることはありません。だから手ぶら(空手(くうしゅ))で、跳ねて遊んで(仏の行を“遊ぶ”とも表現する)いたのです。
 臨済禅師も、「什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す」(『臨済録』示衆)―ブッダと比べても何も欠落しているものはない」と言われています。今年は兎に見習って、すべてが具わっている自分に改めて出会ってみたいと思いませんか。

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