桜が教えてくれるもの
(出典:書き下ろし)
4月に入り、皆さんお待ちかねの桜のシーズンが本格的にやってまいりました。この桜について、一休禅師は
桜木を砕きて見れば花もなし
花をば春の空ゆもちくる
と詠っておられます。
花が咲く前に、桜の木を切ってみても、その中に花の姿は見当たりません。しかし春という季節がやってくれば、その春という現象とぴったりひとつになって花が咲きます。こういう意味の歌ですが、このように聞きますと「なんだ、当たり前じゃないか」と思われるかも知れません。でもこの当たり前のことが、実はとても大切なのです。
桜の木は人から褒められようがけなされようが関係なく、春がやってきたらその木なりに堂々と花を咲かせます。例えば、「去年は花見客のマナーが悪かったから、今年は咲くのやめてやろうか」なんて意地悪なことはしませんし、「去年は花見客に花がいまひとつだった、と言われた。自信がないから今年は咲きたくない」なんて卑屈なことも思いません。いつも無心で、春という現象が来れば堂々と、活き活きと花を咲かせます。
また桜は、「みんながチヤホヤしてくれるから、いつまでも春だといいなぁ」などと思って春に執着することもありません。花が散る時がくれば花は散り、夏に向かって葉が青々と茂り、秋が来れば今度は葉が色づき、冬になれば葉が落ちて、誰に文句をいうこともなく一心に冬を越す。春夏秋冬、どこにもとどまらず、今という現象とぴったりひとつになって無心になすべき事をなす。これが花の当たり前の姿です。
では私たち人間はどうでしょうか。いいことがあれば、それがずっと続くように願い、そのいい時が終わってしまえば、とても苦しい気持ちになります。また何かつらいことがあれば、「辛いなぁ、嫌だなぁ」という思いにとらわれてしまい、何日も暗い気持ちで過ごす、などということもしばしばあります。これでは「今」を活き活きと生きているとは、とても言えません。
こう考えますと、春が来ても冬が来ても、一心になすべきことをなしている桜の木は、私たちがどのように生きたらいいかを無言で教えてくれているように思えます。もしも花のように、楽しいときも苦しいときも、その一瞬一瞬を無心に、一心に生きることができたなら、私たちが生きている当たり前の毎日が、本当に輝いたものになるのではないでしょうか。
そんな人間の手本となるような花の姿を歌った、坂村真民さんの「今を生きる」という詩を最後に御紹介したいと思います。
咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる 「今を生きる」 坂村真民
花のように無心に、今この瞬間瞬間とひとつになって、毎日を活き活きとしたものにしてまいりましょう。