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臓器移植と献体

(出典:書き下ろし)

myoshin1103b.jpg 年末も押し迫ったある日、ある檀家さんの荼毘法要を本堂で行った。実は亡くなったのは二年前で、本人の強い希望により医学献体となり、棺のない葬儀だけをしてあったのだ。当時奥さんは「主人は何で献体なんか申し出たんでしょう。私がちゃんとしてあげたかったのに」と、とまどいを隠せなかった。
 臓器移植法が改正され昨年から運用が始まった。移植の機会は大幅に増え、それによって救われた命がたくさんある。しかし移植はドナー(提供者)があってこそ。献体や臓器提供などで亡くなっていった命や救われた命の尊厳を、僧侶としてどのように考えるべきなのだろうか。
 仏教で言う布施行には三輪空寂(さんりんくうじゃく)という原則がある。施す者(ドナー)施される者(レシピエント)施す物(臓器)、それぞれに執着があってはならないということだ。しかし脳死、という「ある生命の終焉」が前提になる以上、移植を受けるレシピエントは誰かの死を待つことになる。「誰かが死ななければ、自分は助からない」という思いは想像以上に苦しいものだろう。
 「時は今 ところ足下(あしもと) そのことに 打ち込む命 永遠のみいのち」(椎尾弁匡元増上寺法主作)という歌がある。今、この瞬間を懸命に生きる姿こそ、人間の本来の尊厳であると言うことだ。臓器を摘出されるその瞬間、死を迎える瞬間まで「どのように生きたか」。命長らえることができる僥倖(ぎょうこう)を、その瞬間を「いかに生きるか」。
 双方の命の尊厳とは、手術前も手術後も変わらない「仏の命」を一所懸命に生きることだと思う。しかし一方は生き、一方は死んでゆく。だがその命の輝きは等しく美しいのだ。今、この瞬間をそれぞれが懸命に生きる姿が「いのち」の輝きであって、本当に尊ばれるべき人間の尊厳なのだ。人身のかけらを命そのものだと錯覚してはならない。
 父母から受け継いだだけでなく、我々は様々な命をリレーのように受け取って生きているではないか。教え、思い出、友情等々。移植術は科学によって可能になった新しい「命のリレー」だ。その受け継いだ命をいかに輝かせていくか。ドナーの臓器や献体で得られた成果を、一所懸命に生かしきることで、初めて三輪空寂が整うのではないだろうか。
 くだんの奥さんは二年遅れの荼毘回向(だびえこう)の後、「時間が経って考えました。夫が生前いかに人様のためになるように一所懸命生きていたか。最後の最後まで人様のために、と思い続けた主人の生き方を今は有難く、尊い物だと思います」。そういって、長い間お骨を抱きしめて、自分の手でお墓に納めた。
 一所懸命に生き、一所懸命に死んでいく。遺体や臓器が残る残らないではなく、その瞬間まで輝いた命を尊いと思う。家族の深い理解があってこそだが、さて自分自身にそういう最後を迎えられるだろうかとも思った。

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