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即今・此処・自己の現実に生きる

(出典:書き下ろし)

myoshin1103b.jpg 即今(いま)此処(ここ)自己(わたし)の現実とは、今・ここ・私の経験内容です。経験内容とは、見ている姿形、聞いている音声、嗅いでいる香臭、味わっている辛甘塩酸、皮膚で感じている温暖痛痒、あるいは心に思っていることなどです。各自の見たり聞いたり感じたり思ったりしている経験内容が現実なのです。題目は、人々が一念一念に生滅している経験内容という現実に生きることに格別な意味がある、と表明するものです。
 経験内容は、わたしが注意を向け、関心を寄せた事です。わたしが注意を反らし関心を無くすと消滅します。注意や関心は刹那的に生滅するので、経験内容もまた刹那的に生滅します。仏教では、刹那に生滅する意や心を一念というので、経験内容という現実は、一念一念に生滅していると言い換え得るのです。
 注意を向け関心を寄せて何かを見る経験は、他の見えるものから、聞こえることから、感じることから、思えることから、注意を向け関心を寄せたものを選び出すことになります。従って、各自が見たり聞いたり感じたり思ったりしている経験内容は、各自がその都度選択したことだと言えます。この事実が判れば、現実は各自が選択している、ことが認められる筈です。各自が選択した現実であれば、その現実の取捨は各自に委ねられていると言えます。どのような現実を選択するかは、各自の自由であり、その現実の取捨も各自の自由の筈です。各自は自由に現実を取捨選択してそこに生きることができるのです。従って、各自は、生きている現実の主宰者です。生きている現実の主人公なのです。
 しかし、ごく普通の意味での現実は、欣喜悦楽よりも憂悲苦悩が多く、主人公になるどころか、その重みに耐えかね自分自身を見失うことも有り得ます。また、憂悲苦悩の多くは、わたしの意志とは関係なく、世の中がもたらしたのであって、それを自ら選択したとは思えないでしょう。たしかに、憂悲苦悩の契機は、世の中の事情によるものが多いでしょう。
 だがしかし、悲惨な状況に出会った時、必ず憂悲苦悩しなければならないのではなく、異なる心情を選ぶことも可能です。そのような心のゆとりが許されない状況であっても、少なくとも、憂悲苦悩することを自ら選択することができます。いや、実は知らず知らず憂悲苦悩することを自ら選択しているのです。自ら選択したのですから、憂悲苦悩は主人公の心情であって、世の中の事情ではありません。人は誰でも憂悲苦悩の主人公ですから、憂悲苦悩は自ら取捨できることなのです。どんなに深い憂悲苦悩であっても、一念一念に生滅しているのが事実ですから、取捨は自由にできる筈です。
 『臨済録』に「随処に主となれば、立処皆な真なり」(どこででも自己が主人公になれば、立っている所はすべて真実である)という語句がありますが、憂悲苦悩を欣喜悦楽に換えるような話ではなく、憂悲苦悩を自ら選択している現実に目覚め、その現実を自由に取捨して生きなさい、と促しているのです。

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