廓然無聖
(出典:書き下ろし)
臨済宗の寺院では正月になりますと、床の間に達磨さんの画の軸を掛け、新年のお祝いをします。達磨さんが中国へ来たときに、梁の武帝と会い、そして仏教について質問をしました。「仏法の根本義、一番大切な所は?」の質問に、梁の武帝は、自分の学の広いところを、ひとつ表現してみたのであります。すると、「廓然無聖」カラッとして、秋晴れの空のように雲一つない。と答えられました。
達磨さんは何を言いたかったのでしょうか。
例えば、素晴らしい仏様の前に座ったとします。ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるでしょう。その時の心はどんな状態でしょうか?スカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様と一つになったような心境だと思います。これを「廓然無聖」と言います。お布施を例に取りますと、一般的には、お寺へお包みする金銭と考えるでしょう。しかし元来は布を施すのです。二年ほど前、チベットを旅行したときに、お寺で信者さんがお坊さんに白い布を施していました。「あーこれがお布施だ」と思いました。我々はお参りをするとどうしても御利益(ごりやく)を求めてしまいます。受験シーズンになりますと、どうか希望する大学に、高校に受かりますように、また良い会社に入れますようにと神社やお寺に合格祈願をします。わらにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。しかし、そこにある合格したいという自我が煩悩を招くのです。それを戒めているのが「廓然無聖」です。
「廓然無聖」は無心になることです。「空」とも「無」とも置き換えられる言葉です。