法話

フリーワード検索

アーカイブ

師走に思う

(出典:書き下ろし)

rengo1012.jpg 暑くて長い夏がやっと終わりましたが、秋はあっという間に過ぎ去ってしまい時節は師走を迎えました。まさに光陰矢の如しです。私たちは毎日何かに追いまわされています。忙しいという字は心を亡くすと書きます。そしてさらに何か大切なものを忘れているのではないでしょうか。忘れるという字も心を亡くすということです。
 檀家のA子さんは八十歳を少し過ぎた方です。長年、夫婦で力を合わせて朝から晩まで家業に精を出し、仕事と子育てで毎日走りづめの連続だったようです。仕事からも離れ、子供達も各々独立して、老夫婦二人だけの静かな生活も束の間、旦那さんがあっという間に他界されてしまいました。生来、行動力のある方ですので趣味の歌やダンスで寂しさをまぎらわせ、明るく振舞っておられましたが、静かな時間を持ちたいと思われたのでしょうか、月に一度の写経会に参加されるようになりました。
 ある日、A子さんが玄関に書かれてある「照顧脚下」の木札を見て、「履きものを揃えましょう」という意味かと尋ねられました。今まで気付かなかった玄関の木札にも気付くようになられたようです。私は「はい、それでよいのですが、照顧とは『観照顧慮』を(つづ)めたもので『仏の智慧をもって物事の実相をとらえ、その仏の智慧の光で自分を照らし見よ』ということです」と付け加えました。A子さんは「仏の智慧の光で自分を照らす」ということが理解できずにいたようですが、ある日このようなことを話されました。「今までは忙しい、忙しいと言い続けてきましたが、ふと庭に目をやると四季折々に花が咲いていることに気付きました。出掛けるときに『庭の花』に『行ってきます』と挨拶をすると『行ってらっしゃい』と送り出してくれ、帰ってきたときに『ただいま』と言うと『お帰りなさい』と迎えてくれます」と…。A子さんにとっては庭の花に気付いたことがまさに「照顧脚下」となったのでしょう。
 十二月八日は釈尊成道の日です。ブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を続けられた釈尊は暁の明星が燦然と輝くのを契機に「何という不思議な事実であろう。全てのものが如来の智慧徳相を具えもっているではないか」と悟りを開かれたのです。
 私たちの目は外を見るようになっていますが、その目を自分の内側に向けてみることも大切です。そうすれば一輪の花が教えてくれていることに気付くのです。咲いた花は必ず散ります。「落花は流水に随い、流水は落花を送る」が如く、師走の時節、ゆったりと立ち止まって二度とない「いま」を見つめていきましょう。

Back to list