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自分との対面

(出典:書き下ろし)

myoshin1011a.jpg 私達が日常さわやかで、すがすがしい生活をしていくためには、正しいものの見方、考え方が必要です。それには静かな落ちついた心が大切になります。ところが、私達には誰もが逃れられない苦しみがあります。
 その苦しみとは、「生老病死」の四苦であり、愛する人との別れの苦しみ、憎みあう人と暮らさなければならない苦しみ、欲しいものが得られない苦しみ、肉体が元気であるための苦しみがあります。これらの苦しみを四苦八苦といいます。
 ですから、私達は貧乏になったり、病気になったり、他人と争いになったり、親や子やつれあいの死にあったりすると苦しみ、心が不安になり信心を起こし、心の平安を願うようになります。
 苦しみを静かに見つめてみますと、苦しんでいるのは誰でもなく自分自身だということがわかります。誰かが私を罵倒したとします。すると私は怒り、傷つき苦しみます。苦しむのは罵倒した誰かではなく私自身なのです。
 たとえば、誰かがお釈迦さまを罵倒したとしますと、お釈迦さまは決して怒り、傷つき苦しんだりしないのです。そして「彼は、かわいそうな人だ。何か悩みがあるのでは」と心配するのです。相手が問題ではなく、私が苦しむのは私自身に問題があり、私自身が苦しむのであり、苦しみは私自身から起こるということを自覚しなければならないのです。
 したがって「苦しみ」の原因は、自分自身にあって他に求めるのではなく「自分自身」とは何かと自分自身に問うことで解決できるのです。
 私の友人に、おもしろい人がいます。彼は毎晩寝る前に鏡に向かって「ひとりごと」を言うそうです。
 「今日は松山さんに乱暴な言葉を使って悪かったな……。ごめんなさい」。「そうだそうだ、つまらぬことに腹をたてたりして悪かったなぁ。これからは気をつけるから許してくれよ」。
 こんなやりとりを毎日しているそうです。この自分との対面、つまり反省のひとときがすむと日記を書いて寝るそうですが、これを毎日の日課にしているといいます。
 「苦しみ」は、自分自身の内にあることを自覚したとき、私達は人をうらやんだり、憎んだりすることがなくなります。そして自分自身の心が「仏心」なのだと自覚することができるのです。

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