「曹源の一滴水」
(出典:書き下ろし)
私の修行時代、平林僧堂の典座という食事の係りをしていた時の話。
ある時、「春はタケノコづくしが好評だったなぁ。」と思い出し、カゴ一杯のナスを目の前に、「そうだ、一度ナスづくしの料理を出してやれ。」と実行しました。
揚げナスの生姜醤油のおかずに、ナスのみそ汁にナスの漬物、そして思い切って御飯の中にもナスを入れて、“ナス御飯”を炊きました。
また、ニンジンを大量に処理しなければならなくなった時、このニンジンを丸ごとゆがいて下味を付け、衣をつけて揚げて“ニンジンのコロッケ”を出したこともありました。円錐形のコロッケは珍しく、食べると中から丸ごと一本ニンジンが出てきて、驚かれました。それでもソースをかければなかなかの美味でした。
また、風呂吹き大根の残り物を利用した“大根のコロッケ”を作ったこともありました。
これらの涙ぐましい努力は、すべて『何一つムダにしない』という禅の精神から来ています。
江戸末期から明治にかけての禅僧、滴水和尚が、岡山の曹源寺に入門を許されたある夏の日、風呂焚
き当番になりました。入浴していた師匠の儀山和尚が、「湯が少し熱い、水を汲んでこい。」と滴水に命じました。滴水は、桶に残っていた水を何気なくあたりに撒いて、新しい水を汲みに行こうとしました。それを見た儀山は、「そんなことで修行ができるか!」と大喝一声。
なぜ儀山は、わずかな水のことで怒ったのでしょうか。
それは滴水が、残りの水をムダだと思ったからです。残り水も木の根にでもかけてやれば木も活きるし、水も活きる。そして、その水を使う自分自身も活きてくるのです。
儀山和尚の大喝は、これを説いていたのです。滴水はこの大喝にふれて、一滴の水の尊さを肝に銘ずるために『滴水』と号し、後に天龍寺の管長となられました。これが有名な『曹源の一滴水』の話です。
物を大切にすることは、その物の命を活かし、使う人の命も活かすのです。私たちの身の回りには、何一つムダなものはないのです。