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涅槃にいたる「捨」のこころ

(出典:書き下ろし)

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 ご本山・妙心寺では、毎年の恒例行事「新亡供養」が行われる時期になりました。
 涅槃という言葉がありますが、インドのニルヴァーナという言葉を漢音訳したものです。意味は、燃えているロウソクの火をふっと吹き消した状態、つまり、人間の本能から生じるさまざまな煩悩が消え、精神の動揺がなくなった状態を涅槃というのです。
 お釈迦さまは35歳の時に悟りを開かれ、精神的には動揺のまったくない、寂静の境地におられました。しかし、人間は生きている限りにおいて食べなければならないし、睡眠の時間も必要です。ですから、生きる最低の煩悩というもの、肉体を支えるために必要な煩悩は、必ずあるわけです。それはまだ、完全な涅槃とはいいません。
 ところが亡くなられますと、もう食べるものも睡眠も一切の事はいらないので、その状態を完全なる涅槃、ニルヴァーナというわけです。
 では、我々も死んだら一緒ではないか。死んだら食べたくもないし、あれが着たい、これが欲しいとは思いません。だから、お釈迦さまの涅槃と同じではないか。それで、死者を「仏さんになった」というようになったのだと思います。
 しかし、我々はきっと死の瞬間まで財産が気になり、こだわりを持ったまま死を迎えるでしょうから、肉体は滅びてもまだ迷っているような気がいたします。外見上は似ていても、その中身はどうも違うのではないでしょうか。
 そこで、ただ心の静かな状態を望むならば仏教でなくてもいいのですが、仏教はすべてを捨てることが根本であり、捨てることにより煩悩が取り除かれた涅槃の境地において、菩提(悟り)の智慧を得るのです。
 智慧を得たならば、その智慧を生かし、慈悲の心をもって人々を救う働きをしていきます。すなわち煩悩を転じ、慈悲の心を得て働くことが智慧の完成です。
 私はかれこれ、ぎっくり腰歴7回。その度に整形外科に通います。昨年10月の初旬、新型インフルエンザと共にぎっくり腰に見舞われ、二重苦の一週間でした。先生もカルテを見ながら「またやりましたね!」とつぶやくも、それどころではない腰の痛みです。
 待合室にあった、雑誌のぎっくり腰にきく「ヨガの死体のポーズ」の話が目に入りました。その太文字を追うのが精一杯でした。
ヨガの死体のポーズとは、上を向いて寝て、全身の筋肉の力を抜き去り、何にもとらわれず、いわゆる捨て身のポーズです。
 私たち人間は、つい自分の地位や、財産や、プライドにこだわり、悩みます。とらわれて腹が立ちます。それを捨てたところに、安らかな心が得られるのではないかと、転じて思いました。
涅槃にいたるために、即ち生きながらに「仏となる」ために捨てることを学びたいものです。

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