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ある戦国武将と禅

(出典:書き下ろし)

 ここ最近、戦国武将ブームと騒がれております。しかしどうも、そのいでたち格好良さという一面でしか語られていないように感じられます。何故なら戦国武将と禅の関わりについて、案外、知られていないからであります。下剋上という過酷な生存競争の中で、多くの武将たちは禅によって自らを鍛え、世の中の不条理に立ち向かっていったのです。禅に参ずるということは即ち、戦国武将の内面をより深く理解できるといっても過言ではありません。
 戦国時代には数多くの武勇に勝れた武将たちが登場しましたが、天下人豊臣秀吉をして「鬼」といわしめた武将の存在を知る人は少ないようであります。その武将の名は堀尾(ほりお)吉晴(よしはる)
 彼は平生「仏」と親しまれるほど温厚で、また築城の名手として知られておりました。しかし、ひとたび戦場へ駆けると凄まじい勢いで敵を薙ぎ倒す歴戦の勇士へと変貌するのです。その姿を主君秀吉は、「仏ではない鬼である」と称えました。戦場の鬼と恐れられた吉晴でしたが、たいへんに優れた慈悲深い政治家でもありました。関ヶ原の合戦の功績により徳川家康から出雲と隠岐(現在の島根県)の太守へ任ぜられた後は、城下町・松江を開き地域の発展を促しました。今年(平成22年)は、その松江開府四百年の年にあたります。
 吉晴もまた禅に深く帰依しておりました。彼の参禅の師は仁孝天皇より「大光円照禅師」の称号を賜った春龍玄済禅師です。
 出雲と隠岐の太守に任ぜられた吉晴は、堀尾家の菩提寺として円成寺(臨済宗妙心寺派)を建立し、ご開山に春龍禅師を迎えました。その時春龍禅師は、当時正式な地名の付いていなかった松江の風景を見ながら、「この地は中国の淞江(ずんこう)と同じく(すずき)蓴菜(じゅんさい)がとれるので松江という名をつけた」と、『円成寺権輿』という書物の中に記されております。
 松という樹は、臨済禅にとってたいへんに意味を持つ樹であります。臨済宗の宗祖・臨済禅師がひとりで黙々と松を植えておりますと、なぜ松を植えているのかと臨済禅師の師である黄檗禅師から理由を尋ねられます。すると「一には山門の与(ため)に境致と作し、二には後人の(ため)に標榜と()さん」といわれました。
 松は季節に関わらず青々とした葉を繁らせます。毀誉褒貶(きよほうへん)の中に生きる我々の真実の姿を映しているかのようであります。その松をひとつには美しい環境の為、そしてふたつには未来の人たちへの道しるべとして、臨済禅師は松を植えておられたのです。このように松の樹は禅を表わす樹であります。
 堀尾吉晴もまたこの臨済禅師の精神を春龍禅師から受け継ぎ、武将としても領主としても日々精進していたのであります。いかに禅が戦国武将と深く結び付き、現代の私たちの生活の場にも花開いているかを実感していただければ幸いに存じあげます。

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