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一如の声

(出典:書き下ろし)

 禅宗ではよく「一如」ということが言われます。辞書には「純一、絶対平等」、「全く等しいことをいう」とあります。修行道場でも、「何をするにもそのものに成りきれ。そのものと一枚になれ」と指導されます。
 以前、ある寺で、和尚の読経の声に驚かされたことがあります。本堂から聞こえてきた、深く、それでいて明瞭な「その声」にハッと息を呑み、思わず襟を正していました。
 日が暮れて、人気のなくなった寺で夕食を戴きました。差し向かいのその和尚に、昼間の「声」の印象を素直に話すと、「自分はまだまだ未熟者ですから」と、私よりもかなり年長の和尚は、そのまま言葉を切られました。
 やがて、食事が終わる頃、和尚は初めてご自分のことを話されました。
周利槃特(しゅりはんどく)ではないが、自分は子供の頃から物覚えが悪く、修行道場に入ってからも、まわりの方々に色々迷惑をかけました。ですから、せめてお経は誰にも負けないくらいよめるようになろうと……」。
周利槃特は生来愚鈍で、自分の名前すら忘れてしまうため、弟の将来を心配した兄に次いでお釈迦様の弟子となりました。お釈迦様は彼に一本の箒を持たせて、一心に掃除をすることを命じ、それによりお悟りを得たという方です。

 暗くなった庭に目を向けられた和尚のご様子から、自分がお経をよむのか、お経が自分をよむのか、区別もつかなくなるほどの、真剣な精進が察せられました。
 「本当の読経とは、それを聞いた人が自ずから信心の道に入る読経である」と聞いたことがありますが、そういうことは確かにあるのだと納得しました。
 人はそれぞれ違った境遇の下に、様々な条件を持って生まれてきます。自分ができないことを悲しむのではなく、今できることに目を向け、そのことに精一杯打ち込む、精進する。これだけのことが、人にはたいそう難しいのですが、今でもあの日の読経は一如の声となって、私の背中を押してくれるのです。

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