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彼岸に憶う

(出典:書き下ろし)

 「暑さ寒さも彼岸まで」。寒い寒いと口癖のようにいっていたのも束の間で、いつの間にか、その寒さも和らぎ、草木の芽のふくらみも目立ち始めて、早や彼岸の季節である。
 大変古い話で、しかも私事で恐縮だが、彼岸が近づくといつも懐かしく思い出すことがある。
 もう四十数年も前のことになるが、当時、妙心寺の管長をしておられた古川大航老師が「特請授戒会」で拙寺にこられた時の話である。その時既に、95歳になっておられたが、大変お元気な御様子で、挨拶に参上した私に「新命さん、あんた嫁さんはおるのかね?」といわれるので、「はい、おります」と答えると、重ねて「そうか、じゃあ彼岸というのはどういう意味か知っているか?」と聞かれたが、咄嗟のことでもあり、言葉は知っていても詳しい意味などわからない私は、正直に「知りません」と答えた。すると、管長様は「お前さんが嫁さんの気持ちになり、嫁さんがお前さんの気持ちになる、それが彼岸ということだよ」といわれて、色紙に「(てん)」という一字をその場で揮毫(きごう)して下さった。
 「転」とは、普通は「ころぶこと」「倒れること」という意味だが、仏教語としては、「何事でも、かたくなに自分の立場に固執することなく、ぐるりと廻って反対側の立場に立ってみる」という意味をもっている(これはずっとあとになって解ったことだが……)。
 こちら側から見てカッカと腹の立つ事柄でもぐるりと廻って相手の立場に立ってみれば、なるほどそうだったのかと笑って受けとれることも沢山あるし、対人関係の感情問題など全てそうだといっても過言ではない。
 仏教ではこの世の中を娑婆(思いどおりにならないところ)というように、悲しみや苦しさが人生の実相(すがた)といっていいが、それとても同じことで、自分の側からばかりみてそれに間違いないと思い込んでしまうから、やりきれない絶望に陥るわけで、それをひっくり返して考えれば、そのやりきれなさがそっくりそのままあかるい楽しさに変ずることもある。仏教では、そのようにひっくり返すことを「転」といい、それがわれわれの生活の中で極めて大切な生き方だと教えている。
 それを実際に生活の中に生かす道は、その「転」の作用は専ら信仰からでてくるすばらしい智慧の働きであることに気づかせていただくことにあるという。「転」をそこまで深めて受けとった時、悲しみや苦しさのすべてが広大無辺の仏の恩寵(おんちょう)としてよろこべる世界が開けてくるのである。
 自分の中にある自分を「自己」、他人の中にある自分を「他己」という。おたがい、自分の中に他人を観、他人の中にも自分を観ていくという深い思いやりと、一度立場を変えてみるという(まなこ)の方向転換が彼岸に到る道ということであろう。 

怨は怨を以て消すべからず。怨は怨まざるをもって消ゆるものなり  釈尊

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