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お正月の遊びによせて

(出典:書き下ろし)

 お正月の古典的な遊びにカルタとりがある。有名なイロハカルタに書かれていることばの最初、「い」はかつて江戸ものでは「犬も歩けば棒に当たる」だが、上方ものでは「一寸先は闇」という。中ほどの「ま」は同じく江戸では「負けるが勝ち」で上方は「まかぬ種は生えぬ」とのこと。いろいろと違うものだなあと思いながら、ふとこんなことを考えた。
 「ぶっぽう」・「ぶつどう」・「ぶっきょう」はそれぞれ「仏法」・「仏道」・「仏教」の読みであるが、それぞれ「ぶ」を「て」に変えてみると、「てっぽう」・「てつどう」・「てっきょう」となり、それ相応に意味は通る。「鉄砲」・「鉄道」・「鉄橋」である。
 故・盛永宗興老大師のお話の一部に「言葉というものは、長らく使っているとそれぞれに独特の匂いを持つようになってしまう」といった内容を拝聴した記憶がある。つまり仏法というと何かしら法律のような決まりごと、明文化されたイメージがあり、仏道というと柔道、剣道に代表される修行の道をイメージし、仏教というと書物、教えのイメージを持つようになるという御法話であったように記憶している。
 今、言葉のひとつとして「鉄砲」を考えてみると、銃を構えて自分の外に意識を集中させて弾を撃ちだし、命を奪い去ってしまうものが鉄砲であるが、「仏法」は自分の内に意識を集中させて凝り固まった我を打ち壊し、こうして脈打つ自らの命の尊さに気づくものであるとも言える。「鉄道」は沢山の荷物や人を乗せて走る列車の通り道になるものであるが、「仏道」は沢山の雑念や欲にふりまわされる日常を調えて、真っ直ぐに歩いていく道であるとも言える。更に「鉄橋」は主に列車を渡すための鉄の橋のことと説明されるが、橋であるという以上は離れた2ヶ所を結ぶ役割をするものである。「仏教」は般若心経に代表されるように此岸(しがん)(現実世界)から彼岸(ひがん)(理想卿)へ渉り、同時に此岸と彼岸とをひとつに結ぶものである。
 何だかよくわからないことは「お経のようだ」と、自分の知識の枠組みから外れて理解できない事柄を都合よく整理する際に使われることが多い仏さまの教えだが、こうして比べてみると案外身近に感じられることはないだろうか。
 結局、最終的に私たちは「今」いる「この場所」でいかにして精一杯生きていくか、ということに行き着くのだが、浮世に流されて自分を見失うと「思いもよらぬものにぶち当たって」しまい、「一寸先は闇」を痛感することになる。しかしそれとても、「まかぬ種は生えぬ」のだから、原因は自分にあるのだと、謙虚な気持ちを忘れなければ、一時(いっとき)つまづいても「負けるが勝ち」と再び一歩前へ歩き出すこともできる。
 お正月の『初日の出』だけが特別なものではなく、目覚めた朝、差し込む光に対して奥底から湧き出る思いをもって感謝できたなら、きっとすばらしい一生になるのだろう。

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし (伝・一休禅師)

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