ゾッコン惚れる
(出典:『琉璃燈』より)
「一人慶有れば四海虞無く国に於いても家に於いても咸く瑞吉を蒙る(一人がお正月を御祝いすれば天下は怖いものなしになり、国家も人々も皆んな喜んで幸せになる)」これは明暦二年(西暦一六五六年)に大阪は富田の「慈雲山普門寺」で説法された隠元禅師の元旦法話の一節であります。四海は天下であります。
人も自然も森羅萬象一切は、まこと真実の自己という永遠の壽が具体的に現れたものであります。この永遠のいのちに生きない限り、肉体やそこに宿る心は、「憎む愛するとか、善い悪いとか、本当か嘘かとか、美しいか醜いかとか、生きるとか死ぬとか」、どうしても対立してしまう世界に生きて、年齢に随って衰えて終には何もかも消え失せてしまいますので是れを虞と云われたのであります。慶は「行きて人を賀するなり也」と申しまして、誰にでも具わっている真実の自己という永遠の壽をお正月に「オメデトウございます」と、お互いに賀するのであります。日本ではお節料理を囲んでお屠蘇を頂いて「今年も真実の自己に生きて元気一杯働こう」と決心して一年を開始するのがお正月であります。
お正月は唯一残った季節の行事でありますが、海外旅行とか最近では連休の一つになってしまった感じであります。右の如くに一年を開始する人は次第に少なくなるのかと思うのであります。しかし「一人慶有れば……」でありまして、一人がお正月を御祝いすれば皆んな幸せになるのであります。これが大乗仏教の特長であります。大乗仏教はリーダーの宗教であり、ここでは慶有る一人がリーダーであります。
出家はリーダーであります。出家はどうしても対立する世界を捨てて、一度はそこから抜け出してみることが必要なのであります。只々、真実の自己という永遠の壽に生きて、宗門に尽くしてお寺に尽くして生涯終わる、こうでなければ出家とは云えないのであります。
どうしても対立してしまう世界、そこで生活する皆さん方は、対立する世界を抜け出した方に信奉する尊敬する或いは出家に遇ったら心の底から合掌すればよいのであります。「ゾッコン惚れる」のであります。ゾッコン惚れてしまえば、皆さん方在家の方々は、対立する世界から抜け出す必要はないのであります。
昔、こういう話をしましたら「その出家が合掌する価値があるかどうか解ってからでないと合掌出来ない」と云った奴がいました。それでは駄目であります。出家に出遇ったら無条件に合掌する、その時皆さん方は「心中無一物」になっていて、「どうしても対立する世界を既に抜け出している」のであります。これでリ-ダ-と同じになれたのであります。ここな消息に於いて「咸く瑞吉を蒙った」のであります。